歌舞伎という名?の由?は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の
連用形
を名詞化した「
かぶき
」だと言われている
[4]
。
??時代
の終わりから江?時代初頭にかけて
京
で流行した、派手な衣?や一風?わった異形を好んだり、常軌を逸?した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「
かぶき者
」とも言った
[5]
。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な?いを取り入れた?特な「かぶき踊り」が
慶長
年間(
1596年
-
1615年
)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる
?統芸能
「かぶき」の語源となっている。
「かぶき踊り」は主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞?」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられた
[6]
が、江?を通じて主に用いられたのは「歌舞
妓
」であった
[6]
。現在用いられる「歌舞
伎
」の表記も江?時代に使われないことはなかった
[6]
が、一般化したのは近代になってからである
[6]
。
なお、江?時代には「歌舞伎」という名?は俗?
[7]
であり、公的には「
狂言
」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた
[7]
。また
能
もその一つである。
「歌舞伎」「歌舞伎座」の
商標
は
松竹
が取得している
[8]
。
ウィキソ?スに
慶長見聞集
の原文「歌舞妓をどりの事」があります。
出雲阿?(『阿國歌舞伎圖?風』)
阿?歌舞伎?祥地の碑(京都市東山?、南座前)
歌舞伎の元祖は、
出雲阿?
(いずものおくに)という女性
[注? 1]
が創始した「
かぶき踊
」であると言われている。「かふきをとり」という名?が初めて記?に現れるのは『慶長日件?』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記?したものである。阿?たちの一座が「かぶき踊」という名?で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている
[10]
。
『?代記』によれば、阿?が踊ったのは傾き者が茶屋の女と?れる場面を含んだものであった
[10]
。ここでいう「
茶屋
」とはいわゆる色茶屋のこと
[11]
で、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである
[11]
。後述するように、「かぶき踊」は
遊女
に?まっていくが、もともと阿?が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿?自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない
[12]
。
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の?には、阿?が「ややこ踊」というものを踊っていたという記?があり
[13]
、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名??更されたものだと考えられている
[13]
。しかし?容面では?者は質的に異なった
[9]
ものであり、「ややこ踊」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに?し
[10]
、「かぶき踊」は前述のように傾き者の
茶屋遊び
という性的な場面を含んだものである。
なお、この頃の歌舞伎は
能舞台
で演じられており、現在の
歌舞伎座
をはじめとする劇場で見られる
花道
はまだ設置されていなかった
[14]
。
「かぶき踊」が流行すると、?時?多くあった女性や少年の芸能集?が「かぶき」の看板を?げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主?のものもあれば、
アクロバティックな?業
主?の座もあった
[15]
[16]
。
その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(
遊女歌舞伎
)、?時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全?に?まった
[17]
。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである
三味線
が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである
[6]
。?時最新の?器である三味線を花形役者が?き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、?万人もの見物を集めたという
[18]
。
ほかにも
若衆
(12?から17、18?の少年)の役者が演じる歌舞伎(
若衆歌舞伎
、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを
陰間
というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた
[19]
[12]
ことからも分かるように好色性を持ったものであった
[12]
。全?に?まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の?がりは京?大坂?江?の三大都市を中心とした都市部に限られていた
[20]
[21]
。
しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧?や刃傷沙汰が絶えなかったため
[22]
、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、
幕府
により禁止されることになった
[17]
。遊女歌舞伎が禁止された時期に?して、??の通?では?永6年(
1629年
)であるとされていた
[注? 2]
が、全?に?まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの?月をかけて徐?に規制を?めていったと考えられている
[17]
。それに?し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人?を維持していたものの、こちらも禁止されてしまった
[20]
。
なお、古い解?書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止された
あと
に作られたもの」だと書かれているもの
[注? 3]
があるが、これは後の?究で否定されており、?際には「かぶき踊」の最初の記?が?る慶長8年(1603年)には?に若衆歌舞伎の記?がある
[12]
。また、こうした古い解?書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物?似狂言づくし」にすることを?件に再興が認められ、
野?歌舞伎
(役者全員が
野?頭
の成年男子)へと?展していったという?明がなされることがあるが、現在では「物?似狂言づくし」を再興の?件としたことを否定するばかりでなく、野?歌舞伎という時代を積極的には認めない?も存在する
[23]
。
初代 市川團十?
歌川?重
?『猿わか町よるの景』
手前から?へ森田座、市村座、中村座。
次の?期が
元?
年間(1688~1704)にあたるとするのが定?である。歌舞伎?究では
?文
?
延?
の頃を最盛期とする歌舞伎を「野?歌舞伎」と呼?し
[24]
、この時代の狂言台本は?わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、?き狂言の創始や引幕の?生、野?評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている
[24]
。この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていた
[23]
。
江?四座
(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三?座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも?文?延?の頃である
[25]
。
元?年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な?展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元?歌舞伎」と呼ばれている
[26]
。この時期の特筆すべき役者として、
荒事
芸を演じて評判を得た江?の
初代市川團十?
[27]
と、「
やつし事
」
[注? 4]
を得意とし
[28]
て評判を得た京の
初代坂田藤十?
がいる。藤十?の演技は、後に
和事
と呼ばれる芸脈の中に一部受け?がれ
[28]
、後になって藤十?は和事の祖と仰がれた
[27]
。
芳?あやめ (初代)
も京?一
[29]
の若女形として評判を博した。
なお藤十?と團十?がそれぞれ和事?荒事を
創始
したとする記述
[30]
が散見されるが、藤十?が和事を演じたという同時代記?はない
[27]
。?時「やつし事」を得意としたのも藤十?だけではない
[31]
。また荒事の成立過程はよくわかっておらず
[28]
、「?十?が坂田金時役で荒事を創始した」「金平?瑠璃を手本にした」といった俗?は現在では信じられていない
[27]
。
狂言作者の
近松門左衛門
もこの時代の人物で、初代藤十?のために歌舞伎狂言を書いた。後に近松門左衛門は人形?瑠璃にも多大な影響を?えたが、他の人形?瑠璃作品と同?、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され?けている。なお、今日では近松門左衛門は『
?根崎心中
』などの世話物が著名であるが、?時人?があったのは時代物、特に『?性爺合?』であり、『?根崎心中』などは
昭和
になるまで再演されなかった。
作品面では延?8年(
1680年
)頃には基本となる7つの役柄がすべて出?った
[32]
。すなわち
立役
、
女方
(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年?から老年の女性)、
道外方
(どうけがた)である
[32]
。
また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができた。
正保
元年(
1644年
)に?代の?在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ
[33]
、元?16年(
1703年
)には
赤?浪士の事件
に絡んで(?時における)現代社?の異?を脚色することが禁じられた
[33]
のである。これ以降、歌舞伎や人形?瑠璃は、?在の人名を改?したり時代を?えたりするなど一種のごまかしをしながら現?を描くことを?いられることとなる。
江?では芝居小屋は次第に整理されていき、延?の初め頃(1670年代)までには中村座?市村座?森田座?山村座の四座(江?四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、
正?
4年(1714年) に
江島生島事件
が原因で山村座が取り潰された。以降、江?時代を通して、江?では?りの三座(
江?三座
)のみが官許の芝居小屋であり?けた。
三代目大谷鬼次(
二代目中村仲?
)の江?兵衛、?政六年(1794年)五月、江?河原崎座上演『?女房染分手綱』、
東洲???
?
歌舞伎の舞台が?展し始めるのは享保年間からである
[34]
。享保3年(
1718年
)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる
[34]
[注? 5]
。これにより後年盛んになる宙?りや暗闇の演出などが可能になった
[34]
。また、享保年間には演技する場所として
花道
が使われるようになり
[34]
[注? 6]
、「
せり上げ
」が使われ始め
[34]
、
廻り舞台
もおそらくこの時期に使われ始めた
[34]
。
??
年間の大坂では
?木正三
が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする
[34]
[35]
など、舞台機構の大?な開?と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を?使した演出が行われた
[34]
。これらの工夫は江?でも取り入れられた
[34]
。こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(?行き)を、
迫り
によって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の?換を?る高度な演劇へと?展した。
作品面では18世紀から
趣向取り?狂言取り
の手法が本格化した
[36]
。これらは17世紀の時点で?に行われていたが、?時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全?が趣向取り?狂言取りの?象になった
[36]
。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに?し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる
[36]
。
また、この頃になると人形?瑠璃からも趣向取り?狂言取りが行われるようになり、
義太夫狂言
が誕生した
[36]
。すなわち歌舞伎が人形?瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形?瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、?純化すれば「歌舞伎→人形?瑠璃→歌舞伎」という?式であった
[36]
。
延享
年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形?瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原?授手習鑑』『義?千本?』『?名手本忠臣?』の(人形?瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(
1746年
)、4年(
1747年
)、5年(
1748年
)である。
またそれから少し遡る享保16年(
1731年
)には
初代?川菊之丞
が能の道成寺に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を?め
[36]
、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた
[36]
[注? 7]
。その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、??3年(
1753年
)には今日でも上演される『
京鹿子娘道成寺
』が江?で初演されている
[36]
。なお?時の江?はほかのどの土地にも?して舞踊が好まれており
[36]
、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江?の地であった
[36]
。
??9年(
1759年
)、?木正三が『大坂神事?(おおさかまつりぞろえ)』で「
愛想?かし
」を確立した
[37]
。これは女が諸般の事情で心ならずも男と?を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを?に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い
[37]
。
『十一段目』左から
三代目岩井?三?
の大星力?、五代目澤村長十?の大星由良助、
二代目市川九?
の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江?中村座。三代目豊??。
これまで歌舞伎の中心地は京?大坂であったが、文化?文政時代になると、
四代目鶴屋南北
が『
東海道四谷怪談
』(四谷怪談)や『
於染久松色?販
』(お染の七役)など、江?で多くの作品を創作し
[38]
、江?歌舞伎のひとつの全盛期が到?する。南北はまた
生世話
(?客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言
[39]
)を確立して評判を得た
[39]
。
天保
3年(
1832年
)には五代目市川海老?(後の
七代目市川團十?
)が
歌舞伎十八番
の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を??客に配り、天保11年(1840年)に
松羽目物
の嚆矢となった『
?進帳
』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
その後、大南北や人?役者の死去と
天保の改革
による??が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(
1842年
)に七代目市川團十?が奢侈を理由に江?所?いになったり、役者の交際範?や外出時の?いを限定されたりと、??に近い統制がなされたばかりか、堺町?葺屋町?木挽町に散在していた江?三座と操り人形の薩摩座?結城座が一括して外堀の外
[注? 8]
に移?させられた
[40]
。移?先の聖天町は江?における芝居小屋の草分けである猿若勘三?の名にちなんで
猿若町
(さるわかまち)と改名された。
しかし、江?三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江?市中では時折?まされた火事延?による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江?歌舞伎の?金時代となって開花した。
幕末
から
明治
の初めにかけては、
二代目河竹新七(?阿?)
が『
小袖曾我?色縫
』(十六夜?心)、『
三人吉三廓初買
』(三人吉三)、『
?砥稿花紅彩?
』(白浪五人男)、『
梅雨小袖昔八丈
』(?結新三)、『
天衣紛上野初花
』(河?山)などの名作を次?に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった
[41]
。
江?時代、歌舞伎役者らは?統的に「
河原者
」(
?民
)として身分上は差別された
[42]
とされる。
二代目?村淀五?の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊
明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(
散切物
、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描?し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は??の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追?したかたちの
生世話物
といえる。しかし明治5年(
1872年
)になると歌舞伎の?値?を根底から?るがす要求が明治政府から出された。政府はこの年から歌舞伎に?して干?しはじめ
[33]
、「高い身分の方や外?人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を?止することなどを要求した
[33]
のである。江?時代にはむしろ現?そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた?値?であり
[33]
、政府の要求は江?歌舞伎の持つ?の?値?を全面否定するものであった
[33]
。
1886年(明治19年)には「日本が?米の先進?に肩を?べうる文明?であることを?示する目的で
[33]
演劇改良?
が設立され、政治家、?業家、?者、ジャ?ナリストら
[33]
が?加した。翌年には、演劇改良?は歌舞伎誕生以?初となる天皇による歌舞伎鑑賞(
天?歌舞伎
)を?現させ、役者たちの社?的地位の向上を助けるきっかけとなった
[33]
。
時代は前後するが、こうした要求に?じて作られたのが
活?物
[注? 9]
と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活?物の芝居の中心となったのが
九代目市川團十?
である。芝居の?値?が政府のそれと一致していた團十?は事?に?した演劇を演じ始め、彼の?値?に反した歌舞伎の特?、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した
[33]
。それに?して團十?が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」
[33]
で、セリフと動きを極力減らし
[33]
、「目と顔」による表現
[33]
で演じ始めた。
こうした團十?の芸は高く評?され
[33]
ながらも、活?をよしとするのは一部の上流知識人のみ
[33]
で、世間の人はその芝居らしくない活?には背を向けた
[33]
が、團十?の演技志向に?する共感は次第に?がっていった
[33]
。しかし
日???
前後の復古主義の風潮の中で團十?は??の狂言を演じるようになり、猥?すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に??に復したわけではなく、創造方法において活?の影響を受けたものであった
[44]
。こうして團十?の人物造形が??の歌舞伎にも適用され
[33]
、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった
[33]
ことが活?の?史的意義である
[33]
。
劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良?の?員であった
福地?痴
が金融業者の
千葉勝五?
と共同??で
歌舞伎座
を設立。歌舞伎座には九代目市川團十?、
五代目尾上菊五?
、
初代市川左團次
らの名優が舞台に立ち、いわゆる「
團菊左
」の時代をもたらした。その後、??者の?紛を得て、1913年(
大正
2年)に今日の??母?である
松竹
が歌舞伎座を買?した。
歌舞伎座は歌舞伎の?史に??な影響を?え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本?とする九代目市川團十?と五代目尾上菊五?を頂点として、役者集?の階層性が定まった
[33]
。他にも歌舞伎の中央集?化
[33]
、改良演劇の確立
[33]
、歌舞伎演出の?式美化の促進
[33]
といった影響があったことが指摘されている。
一方の江?三座は、歌舞伎座設立時に千?座(後の
明治座
)と組んで歌舞伎座に?抗(
四座同盟
)するなどした。また大正の頃の市村座では、
六代目尾上菊五?
と
初代中村吉右衛門
が
菊吉時代?二長町時代
と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江?三座の放った最後の輝きであった。江?三座は失火等で順に?座になっていき、1932年(
昭和
7年)に市村座の?小屋が?失したのを最後に江?三座は潰えた。
19世紀末
[45]
になると、
新歌舞伎
という新たな歌舞伎狂言が登場した。これは「近代的な背景?や舞台照明」の採用
[45]
、劇界外部の作者の作品や??劇の上演
[45]
、「新しい?客の掘り起こし」
[45]
によって成立した、「近代の知性?感性に訴える歌舞伎」
[45]
である。松井松葉の『?源太』(明治38年?1899年)や坪?逍?の『桐一葉』(明治43年?1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって??の作品が書かれた。それまでは各劇場に所?する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「?金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを?えることにつながった。ほかにも
岡本綺堂
の『
修?寺物語
』『
鳥?山心中
』、
?山?果
の『
元?忠臣?
』十部作などが著名である。
その一方では、?前からの
梨園
の
封建
的なあり方に疑問を呈する形で
二代目市川猿之助
の
春秋座
結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反?して
1931年
(昭和6年)には
四代目河原崎長十?
、
三代目中村翫右衛門
、
六代目河原崎國太?
らによる
前進座
が設立された
[46]
。
第二次世界大?
の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われた。?災による物的?人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になった。
終?後の
1945年
(昭和20年)
9月22日
、
GHQ
は日本の民主化と軍?主義化の?拭との理由から、「封建的忠誠」や「復讐の心情に立脚する」
[47]
「身分社?を肯定する」の演目の上演を禁止した。同年11月15日、GHQは東京劇場上演中の『
菅原?授手習鑑
』寺子屋の段を反
民主主義
的として中止命令を出し、11月20日に上演中止
[48]
となった。松竹本社ではGHQの指導方針に?して自主的に脚本の再?討を行った結果、『
忠臣?
』『千代萩』『寺子屋』『水??門記』『
番町皿屋敷
』などの演目を締め出すこととした
[49]
。しかし、
マッカ?サ?
の副官
バワ?ズ
の進言で、古典的な演目の制限が解除され、
1947年
(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者?出演による『
?名手本忠臣?
』の通し興行が行われた。
1950年代
には人?の暮らしにも余裕が生まれ、??も多?化し始めた。
1953年
(昭和28年)2月1日、
NHKテレビジョン
の放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』であった
[50]
。一方でテレビ時代とともに
プロ野球
やレジャ?産業の人?上昇、映?や放送の?達が見られるようになり、歌舞伎が??のように??の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映?界入り、?西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社?にも?動の時代が始まった。
そのような社?の?動の中、
1962年
(昭和37年)の
十一代目市川團十?
襲名から、歌舞伎は人?を回復した。役者も團十?のほか、
六代目中村歌右衛門
、
二代目尾上松?
、
二代目中村?治?
、
十七代目中村勘三?
、
七代目尾上梅幸
、
八代目松本幸四?
、
十三代目片岡仁左衛門
、
十七代目市村羽左衛門
などの人材が活躍。日本??の興行も盛んとなり、?米諸?での海外公演も行われた。
?後の全盛期を迎えた
1960年代
から
1970年代
には次?と新しい動きが起こった。特に明治以降、?視されがちだった歌舞伎本?の?式が重要だという認識が?がった。
1965年
(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が
重要無形文化財
に指定され
[注? 10]
、
?立劇場
が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功した。?立劇場は高校生のための歌舞伎?室を盛んに開催して、?十年後の歌舞伎ファンの創出に努めた。その後、大阪には映?館を改?した
大阪松竹座
、福岡には
博多座
が開場し、歌舞伎の興行はさらに充?さを?した。さらに、
三代目市川猿之助
は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連の要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大?な演出を?調した「
ス?パ?歌舞伎
」を創り出した。また
2000年代
では、
十八代目中村勘三?
による
コク?ン歌舞伎
、
平成中村座
の公演、
四代目坂田藤十?
らによる?西歌舞伎の復興
[注? 11]
などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも
?川幸雄
や
野田秀樹
といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江?時代のそれとまったく同じではない。その中で長い?統を持つ歌舞伎の演劇?式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが?いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる?統芸能としての評?を得るに至っている。
歌舞伎(?統的な演技演出?式によって上演される歌舞伎)は、
ユネスコ
無形文化遺産保護?約
の??以前
[注? 12]
の
2005年
(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一?表」に?載され、無形文化遺産に登?されることが事?上確定していたが、
2009年
(平成21年)9月の第1回登?で正式に登?された。
東京
歌舞伎座
上演の『
暫
』(中央で見得を切るのは
九代目市川團十?
の鎌倉?五?)。
1895年
(明治28年)11月、
鹿島?兵衛
撮影
現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である
歌舞伎狂言
と
歌舞伎舞踊
に分けられる
[51]
。
歌舞伎狂言は、さらにその?容により
時代物
と
世話物
に大別される。
時代物
とは、江?時代より前の時代に起きた史?を下敷きとした??風の作品
[52]
や、江?時代に公家?武家?僧侶階級に起きた事件を中世以前に?託した作品をいう
[53]
。一方、
世話物
とは、江?時代の市井の世相を描?した作品をいう
[54]
。
時代物のうち、お家?動を書いたものは
御家物
(おいえもの)、
飛鳥時代
から
平安時代
を描いたものは
王朝物
(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に??的要素の濃いもの
[55]
を
生世話物
(きぜわもの)という。明治になると?時の世相を描いた
散切物
という世話物のサブジャンルも生まれた。
また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、
人形?瑠璃
の演目を書き換えたものを
丸本物
[56]
といい、能?狂言の曲目を原作としてそれらに近い?式で上演する所作事を
松羽目物
[注? 13]
という。丸本物は
義太夫物
?
義太夫狂言
?
でんでん物
[57]
などとも呼ばれる。なお丸本物の?義語は
純歌舞伎
[58]
である。
活?物
(かつれきもの)は明治期に歌舞伎を近代社?にふさわしい?容のものに改めようとして生まれた演目の??であり、
新歌舞伎
(しんかぶき)は、明治後期から昭和初期にかけて、劇場との?係を持たない?立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の??である。なお、第二次世界大?中から?後以降に書かれた新しい演目は、
新作歌舞伎
(しんさくかぶき)または?に
新作
(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは?別している。
歌舞伎狂言の分類方法は人によって?れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例
[59]
もある。
西光亭芝國?春好齋北洲?『故人市川團藏十七?忌追善狂言 平家女護嶋』四枚續物、文政7年9月大阪角座上演『
平家女護嶋
』(1824年)
歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特?がいくつかある。まず歌舞伎狂言は
世界
という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開するうえでの時代?場所?背景?人物などの設定を、?客の誰もが知っているような??や物語あるいは?史上の事件などの大?に求めたもの
[60]
で、たとえば「
曾我物
」「
景?
物」「
隅田川物
」「
義?物(判官物)
」「
太平記
物」「
忠臣?
物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。?時の?客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の?容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸?して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくない。
複?の世界を組み合わせて一つの演目を作ることもあり、これを
?交ぜ
(ないまぜ)とよぶ。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複?の世界を結びつけてひとつの演目を作りだす。
江?時代に作られた演目のその他の特?として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に?多くのサイドスト?リ?を?んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは?時の歌舞伎が日の出から日?まで上演した
[注? 14]
[注? 15]
ことによる。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り?むことで多種多?な?客を?足させることを狙ったものである。
現在
[注? 16]
ではこのような長大な演目の全場面を上演すること(
通し狂言
)はまれになり、複?の演目の人?場面のみを順に演じること(
ミドリ
/
見取り
[注? 17]
)が多い。
昭和
のはじめごろまでは、演目を?べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」
[56]
(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。
また江?時代には(?時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を?名にしたうえで無理やり過去の出?事として物語が描かれるという特?もある。しかし?名といっても
羽柴秀吉
のことを「?柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の?容から?に描きたい事件を?み解くのは容易であった
[注? 18]
。
江?時代の歌舞伎狂言の演目名(
外題
(げだい)という)は?起を?いで「割りきれない」奇?個の漢字で書けるものが選ばれることが多く、その?み方は
?
を競って?て字や?て?みを?使したものであるため、一見しただけではその?み方が分からないものも少なくない。こうした事情により、外題のほかにより親しみやすい
通?
がついていることが多く、この場合もともとの外題を通?と?別するために
本外題
と呼ぶ。また各演目の人?のある場面(
段
?
場
?
幕
など)には演目それ自身の通?とは別にその場面の通?がついている場合もある。
具?例は下記のとおりである。
- 演目そのものに通?がついている例:
- 『
都鳥廓白波
』
(みやこどり ながれの しらなみ)
→『忍の?太』
(しのぶの そうた)
- 『
大塔宮曦鎧
』
(おおとうのみや あさひの よろい)
→『身替り音頭』
(みがわり おんど)
- 『
慙紅葉汗顔見勢
』
(はじ もみじ あせの かおみせ)
→『伊達の十役』
(だての じゅうやく)
- 『
刈萱桑門筑紫??
』
(かるかや どうしん つくしの いえづと)
→『
刈萱道心
』
(かるかや どうしん)
- 『
?砥稿花紅彩?
』
(あおとぞうし はなの にしきえ)
→『白浪五人男』
(しらなみ ごにんおとこ)
- 『
?話情浮名?櫛
』
(よはなさけ うきなの よこぐし)
→『切られ?三』
(きられ よさ)
- 『
蘆屋道?大?鑑
』
(あしやどうまん おおうち かがみ)
→『葛の葉』
(くずのは)
- 特定の段に通?がついている例:
- 『
?本太功記
』
(えほん たいこうき)
十段目「尼ヶ崎閑居の場」 →『太十』
(たいじゅう)
- 『
心中天網島
』
(しんじゅう てんの あみじま)
二段目「天?紙屋?の場」→『時雨の炬?』
(しぐれの こたつ)
- 『
?性爺合?
』
(こくせんや かっせん)
二段目「獅子ヶ城?門の場」→『?門』
(ろうもん)
- 『
?門五三桐
』
(さんもん ごさんの きり)
二幕目返し「南?寺山門の場」→『山門』
(さんもん)
- 『
平家女護島
』
(へいけ にょごがしま)
二段目切「鬼界が島の場」→『俊?』
(しゅんかん)
- 『
?飛脚大和往?
』
(こいびきゃく やまと おうらい)
二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』
(ふういんぎり)
- 『
義?千本?
』
(よしつね せんぼん ざくら)
四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』
(よしのやま)
、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』
(しのきり)
なお、
返し
(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意ができ次第すぐに次の幕を開けること
[63]
、
切
とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで
[64]
、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義?千本?』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人?の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
「外題」という語は「芸題
(げいだい)」
が詰まって「げだい」になったとする?もあるが、古代から中世にかけては
??物
の外側に書かれた短い本題を「外題」、?側に書かれた詳題を「?題」と言っており、これが起源だとする?もある。外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江?歌舞伎では
名題
(なだい)
といっていた
[65]
。こちらにも「?題
(ないだい)」
が詰まって「なだい」になったとする?があり、上方の「外題」と江?の「
名題
」で?になることが、??物起源?の根?となっている。
舞台上の?衣
歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいることがあり、この人を
後見
(こうけん)という。特に全身??束に身を包んだ後見を
?衣後見
(くろごこうけん)、あるいは略して
?衣
(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しないことが原則の通常の演劇と違い、?衣をはじめとした後見は?客の目から見える位置に現れる。しかし後見たちが舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗?の了解である。
?衣以外にも、
紋付
袴
の後見(
着付後見
(きつけごうけん)もしくは
袴後見
という)や
?
の後見(
?後見
(かみしもごうけん)という)もいる
[66]
。さらに海や水?の場面に登場する??束の
波後見
(なみごうけん)、雪の場面に登場する白?束の
雪後見
(ゆきごうけん、
白衣
(しろご)とも)などの後見がいるが、波後見は幕末、白衣はおそらく明治以降に考案されたものである
[67]
。
また歌舞伎の演出では
拍子木
(ひょうしぎ)あるいは略して
柝
(き)を用いることがあり、芝居の開始時の合?として打ったり幕切れで打ったりし、これらのときには2本を打ち合わせる
[68]
。また役者の足取りに合わせて打たれたるなど、動作や物音を?調するためにも用いられ(
ツケ
[注? 19]
という)、この場合には床に置いた板(ツケ板)に打ちつける
[68]
?取の例
?取
はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、?系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
見得
は演目の見せ場において役者がポ?ズを決めて制止することを指す。映?におけるストップモ?ション技法に相?し、役者を印象づけたり舞台の??的な美しさを演出したりするのに用いられる。
六方
(ろっぽう)は伊達や勇?なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、?初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ?みのときにこれが行われる。
外連
(けれん)は宙?りや早替り、仕掛けなどを使うなど?客を驚かせるような演出である。
一代に終わらず何代も受け?がれる歌舞伎役者の芸名は、
名跡
(みょうせき)と呼ばれている。名跡を?ぐことを
襲名
(しゅうめい)といい、役者たちは??を?るにつれ、名跡を順?に取り換えて次第に大きな名跡を?いでいく。?子や血?者が?承することが多いが、養子や?力のある高弟ら
に名跡を?がせることもある。ただし、ここでいう養子は法的な意味でのそれとは限らず、いわば芸の上での養子であることもあり、これを
芸養子
という。
役者たちは名跡とは別に名跡?芸名ごとにきまる
屋?
(やごう)を持っている(
歌舞伎役者の屋?一?
?照)。歌舞伎では役者の登場時やセリフ?見得が決まった時など
[注? 20]
に
大向こう
(≒後ろの方の席)などから役者に?をかける習慣があるが、その時は芸名でなく屋?で呼ぶのが基本である。
歌舞伎役者の家柄に生まれた者の場合、幼少時から芸の基礎となる習い事(日本舞踊、長唄、鳴物など)を始め、未就?のうちに役者の子や孫として舞台に上がる「初お目見え」
[71]
、そして「初舞台」を??し、子役として舞台??を積む
[72]
[73]
。思春期になり??をすると役がつかなくなり、20?ごろまでは稽古をしながら?業に?む時期となるため、ここで自らの進路について考えることとなる
[74]
。歌舞伎役者になることを選ばない者もいる。
歌舞伎とは?係のない家に生まれた世襲以外の志望者については、?立劇場の新人育成?修(
後述
)、1997年に開塾した松竹上方歌舞伎塾
[75]
[76]
で?修生を募集しており、選考試?に合格した者が?修を受けることができる。?修終了後は?立劇場養成課などを通じ、歌舞伎俳優に弟子入りをして、師匠から芸名をもらう
[77]
。また入門後に歌舞伎の世界の?儀作法やしきたりなどを?え、セリフの無い役や立ち廻り、後見や付き人などとして役者修行をはじめる
[78]
。このような?緯を?って役者となり、?擢も受けるようになった例としては、
二代目市川笑也
や
中村芝のぶ
[注? 21]
、
二代目市川月乃助
や
二代目市川春猿
[注? 22]
らが知られる。
ほか、子役で歌舞伎の舞台に出演したときに素質を見?まれて部屋子?芸養子となると、役者と同じ?屋で鏡台を?べ、有力な役者の子弟(御曹司)と同?に?育を受けることとなる。このように育成された例としては、
五代目坂東玉三?
や
六代目片岡愛之助
などが知られている
[注? 23]
。
歌舞伎界に入門して10年以上で幹部俳優の推薦を受けた役者は、
日本俳優協?
の名題資格審査(名題試?)を受?することができる。筆記?作文??技の審査に合格して『名題適任?』を取得し、?係各方面の?同を受けて名題昇進披露を行った者は「名題俳優」と呼ばれる。歌舞伎俳優の家に生まれた者も歌舞伎とは無?係な家に生まれた者も、同?に受?して資格を得ている
[81]
。名題に昇格していない者は「名題下」と呼ばれるが、『名題適任?』を取得しているにもかかわらず、あえて昇格をしない者もいる。?なる身分の上下ではなく、立ち廻りの演出を行う?門職の立師(たてし)は名題下の職分であるためである
[82]
。
銀行員であったが
市川宗家
に?入りしたことから29?で役者修業に入った
五代目市川三升
、
三代目市川猿之助
と
浜木綿子
の息子として生まれたが?親の離婚のため母親に養育され、長らく本名で俳優活動を行った後に45?で歌舞伎の世界に入った
九代目市川中車
などは珍しい例といえる。
社?法人?統歌舞伎保存?は、
1965年
(昭和40年)に
文化財保護法
に基づき設立された??である。
翌
1966年
(昭和41年)4月に歌舞伎は?の重要無形文化財に認定され、同?はその保持??として認定を受けた。?員は歌舞伎?係者のうち
「舞台??20年以上の技能に優れたもの」
で、
重要無形文化財
「歌舞伎」の保持者として?合認定を受けている
[1]
。俳優、長唄(唄方、三味線方)、竹本(唄方、三味線方)、鳴物、狂言作者
[83]
など、2021年6月の時点で現?員は199名(引退?物故?員247名)である
[84]
。
?立行政法人
日本芸術文化振興?
(
?立劇場
)や松竹と協力し、歌舞伎俳優(1970年より)と歌舞伎音?演奏者(竹本は1975年、鳴物は1981年、長唄は1999年より)の新人養成事業を行っている
[85]
。また若手俳優や演奏家に?して各劇場の稽古場で日常的に?修を行うほか、?修?勉??に指導者を派遣するなど、歌舞伎という芸能の?承と育成のための活動
[86]
、中?生?高校生を?象としたワ?クショップも??している
[87]
。
2020年5月28日に
日本俳優協?
と
YouTube
チャンネル「歌舞伎ましょう」
[88]
を開設しており、歌舞伎の魅力を?えるための動?配信を行っている
[89]
。歌舞伎の舞台裏や役者の稽古の?子、自主公演のPRや私生活での趣味など多種多?な?容の動?がアップロ?ドされており、
六代目市村竹松
?尾上音?による歌舞伎?歌舞伎化粧の英語解?の動?も作られている。
歌舞伎座の舞台平面?
[90]
。
?村政信
?『芝居浮繪』
(しばい うきえ)?保年間の葺屋町市村座。
歌舞伎の舞台を右?にしたがって?明する。なお客席から舞台を見たとき右側を
上手
(かみて)、左側を
下手
(しもて)という。
花道
は舞台下手から客席を貫いて設けられている通路?の舞台である。正面の舞台は
本舞台
という。花道は役者の入退場に用いられるばかりでなく、ここで重要な演技も行われる。?客のすぐそばを通ることで役者の存在感をアピ?ルするなどの演出が可能となる
[注? 24]
。
舞台の?端には
大臣?い
(だいじんがこい)があり、下手側の大臣?いには太鼓などの演奏や長唄、?果音などを演奏するための場所で外側には?い御簾(みす)がかけられている。この場所を
?御簾
(くろみす)もしくは
下座
(げざ)ともいい、ここで奏でられる音?を
?御簾音?
もしくは
下座音?
という。一方、上手側の大臣?いの2階は義太夫狂言(=
人形?瑠璃
から取り?んだ演目)などで竹本という語り物とその伴奏である三味線を奏でる場所で、
床
(ゆか)と呼ばれる。大臣?いの端の柱は
大臣柱
(だいじんばしら)と呼ばれている。これは現在では?なる柱にすぎないが、?史的には歌舞伎舞台の先祖である能舞台で屋根を支える柱からきており
[91]
、歌舞伎においても古くは舞台の屋根を支えるために用いられていた
[91]
。
花道の舞台とは反?側の端には役者が入退場するための
鳥屋
(とや)という部屋があり、その入り口には部屋の中を?すための
揚幕
(あげまく)という幕がかかっている。また本舞台と揚幕を3:7に分ける場所
[注? 25]
を
舞台寄りの七三
[92]
、7:3に分ける場所を
揚幕寄りの七三
[92]
といい、花道上の演技は多くの場合このいずれかの場所(特に前者)で行われる。舞台寄りの七三にはセリがあり、
すっぽん
と呼ばれている。すっぽんは妖怪や幽?などを演じる役者が登場したり退場したりする場合に使われる。花道は通常下手にしかないが、演目によっては演出の都合上、上手側にも花道を?設する場合があり
[注? 26]
、これを
?花道
(かりはなみち)という。
なお?史的には
七三
といえば揚幕寄りの七三のことであった
[92]
が、大正の頃
[92]
から混同が起こり「七三」という言葉が舞台寄りの七三のことも表すようになった
[92]
。混同された理由としては、揚幕寄りの七三が2階席から見づらいために演技の位置が舞台よりの七三に移ったこと
[92]
、無知なジャ?ナリストが誤用した可能性
[92]
などが?げられている。また「鳥屋」という言葉は上方のものであり
[93]
、江?ではこの部屋も揚幕と呼ばれた
[93]
。
日本の家屋は床が地面よりもかなり高いため、舞台でもこの高さを作り出すことが多い。この高さの水準を二重舞台、略して二重といい、そのための大道具類も二重と呼ばれる。高さによって常足、中足、高足などがある。どれを使うかは場面によってだいたい決まっている
[94]
。
客席の?分と名?については
劇場#歌舞伎
を?照。
廻り舞台
(まわりぶたい)は舞台中央にあって、水平に回?する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の?置を仕?んでおき、回?させることによって素早く場面?換ができる。通常は役者が舞台に?ったままの?態で、?置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の?置をこわし、さらに次の場面の?置を仕?むことができる。廻り舞台の回?は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回?させ、場面?換を?客に印象づけることができる。この手法を
明?
(あかてん)という。また、たとえば?だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に?せ、一方から他方への?換を見せ、次に逆回?させて元の場面に?るというようなことができる
[注? 27]
。これを俗に「
行って?い
」といい、場面が?るとともに時間も?るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を?く表現できる。
『佐倉義民?』の子別れ、『入谷』などのように、少しだけ廻して建物の?などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では?置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある?置を組むことがある。ときには裏側まで作る。
迫り(セリ)
は昇降?置で、地下(
奈落
(ならく)という)からせり上がって役者の登場や退場に使われるほか、大道具それ自身をせり上げることで屋敷の地下が現れる
[注? 28]
などの迫力のある演出を行う。回り舞台が場面を水平方向へ、迫りが鉛直方向に切り替えて立?感を出す。なおセリの配置や個?は劇場により異なるが、ここでは歌舞伎座のもの
[95]
を?示した。廻り舞台や迫りは今日では??な演劇に用いられているが、もともとは享保年間に歌舞伎に取り入れられたものである。
歌舞伎座や京都南座の定式幕。森田座に起源を持つ。
?立劇場や大阪新歌舞伎座の定式幕。市村座に起源を持つ。
平成中村座の定式幕。中村座に起源を持つ。
歌舞伎では舞台と客席を仕切る幕として
定式幕
という引き幕(=?方向に引いて開閉する幕)が用いられる。現在用いられている定式幕は三色の?縞であり、色は左から?、?、萌?の順(歌舞伎座や京都
南座
など)もしくは?、?、萌?の順である(
?立劇場
や大阪
新歌舞伎座
など)。
平成中村座
は例外的に左から?、白、?の順の三色を用いている。
また現在ではさらに上に開く
緞帳
も用いており、緞帳を開けるとその?に定式幕が見えるようになっている。開場直後や長い幕間では緞帳が下りているが、芝居が始まるだいぶ前の段階で緞帳を上げ、その後定刻になると定式幕を下手から上手へ引き開けて芝居が始まる。
江?時代に引き幕を使用することができたのは幕府から許可を得た芝居小屋だけであり、定式幕はいわば官許の芝居の?のひとつであった。江?には幕府の許可を得た芝居小屋は3つのみ(
江?三座
)であり、前述した3種類の定式幕はそれぞれ江?三座の森田座、市村座、中村座に起源を持つ。ただし引き幕に?する事情は地方によって異なり、たとえば上方では紺無地一色の幕を中央から2つに分けて開いていた
[96]
。
一方幕府の許可のない芝居小屋はさまざまな制限を受けており、引き幕を使えないため代わりに
簾
を上下させて幕の代わりに利用していた
[97]
[注? 29]
。したがって歌舞伎における緞帳の?史をさかのぼるとこうした許可のない芝居小屋にたどりつくが、現在歌舞伎で使われている緞帳の起源は別にあり、明治12年新富座の贈り幕(=大夫元や役者が??客から貰った豪華な幕)がその起源である
[98]
。
その他にも演出上の都合で別の幕が使われることもある。
??幕
はその名の通り
??色
の幕で、定式幕のすぐ後ろに配置される。舞台上部で吊られており、吊っている部分を引っ張ることで簡?に幕を落下させられる(「
振落し
(ふりおとし)」という)。通常であれば定式幕が?に開いていくとそれに?って役者や背景が順に?客の目に入っていくが、??幕はそれを遮る目的で使用される。そして定式幕が完全に開いた段階で??幕を振り落とせば舞台が一瞬にして?客の目の前に表れるため、舞台の鮮やかさを?客に印象づけることができる。逆に舞台上部の棒に縛った??幕を芝居の途中で下ろすことで一瞬にして舞台を?客の目から?す(「
降りかぶせ
」という)目的でも使用される。
道具幕
は背景として用いられる。道具幕には
浪幕
(なみまく)、
山幕
(やままく)、
網代幕
(あじろまく)などがあり、それぞれ海の波、山、?の築地が描かれている。
?幕
(くろまく)は?一色の幕で闇夜を表すための背景として用いられる。これらの幕は??幕と同?の仕組みで振り落とされる場合もある。
また不必要なものを?す目的でも幕は使用され、消し幕は殺された人物の退場、
霞幕
(かすみまく)は竹本や?元などの演奏者の入退場や演奏していない?態を?す目的で使用される
[99]
。消し幕は時代物では
緋毛氈
(ひもうせん)、世話物では?布を使用する
[99]
。霞幕は白い布に水色の雲が描かれた布で作られており、霞のよう
[99]
であることからこの名?で呼ばれる。また
化粧幕
は化粧を直している役者を?す目的の緋色の幕で、
鳴神
など古風な演出を狙った狂言で用いられる
[100]
。
歌舞伎の古典的な演目では舞台上のどこにも影がなく、均一な照明が好まれるため、通常の劇場の前明かりばかりでなく、舞台上?舞台脇にも多くの明かりがある。現在の歌舞伎座には7列のボ?ダ?ライトと5列のサスペンションライトが設備されている。ボ?ダ?ライトは作業用の照明ではなく、上演中に点?するためのものである
[101]
。
歌舞伎には、多彩な音?が用いられる。これは「歌舞伎」が本?、最初から劇として作られた演目、人形?瑠璃を原作とした演目、さらには舞踊といったさまざまの種類の舞台を?合したものであり、各分野に適?した音?が存在するためである。大きく分けて(1)歌物である
長唄
と、(2)語り物である
?瑠璃
がある。演奏家たちを地方(じかた)という。
- 長唄
- 歌舞伎の伴奏音?として?達した音?。舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『
?進帳
』『
連獅子
』など)。また?子方とともに下座音?(後述)を??する。
- 義太夫節
- 人形?瑠璃は、
義太夫節
(?瑠璃の一種)の演奏に合わせて劇が進行する構成であり、歌舞伎でも人形?瑠璃から移入した演目(『
義?千本?
』『
?名手本忠臣?
』など)は同?に義太夫節が演奏される。人形?瑠璃では登場人物の台詞と?況?明をすべて義太夫節の太夫(語り手)が行うが、歌舞伎での台詞は基本的に役者が??し、太夫は?況の?明のみを語ることになる。このため、歌舞伎における義太夫節を「
竹本
(チョボ)」といって?別することがある。義太夫狂言での義太夫節はおもに舞台上手上部にある?用の場所で演奏される。この場所を「床(ゆか)」または「チョボ床」と呼ぶ
[102]
。
- 常磐津節??元節
- ともに?瑠璃のひとつ。大坂で?展した義太夫節に?し、これらは江?で?展したもので「江??瑠璃」と呼ばれる
[103]
。重厚な義太夫節に比べて?妙??な芸風が特?で、?元節はさらに?細な持ち味を備える。舞踊劇や舞踊で演奏される。常磐津節『
?の扉
』『?駕』、?元節『
落人
』『保名』など。
- その他
- 上記の他に、
大薩摩節
、
河東節
[104]
、
新?節
などが使われる演目がある。江??瑠璃の一つである
富本節
(常磐津節と?元節の系譜の中間に位置する)は江?時代に盛んに用いられたが、近代以降は衰退し、現在では歌舞伎の伴奏として演奏されることはない。
- 下座音?
- 「?御簾音?」ともいい
[4]
、劇中音?を??し、「?御簾(くろみす)」と呼ばれる舞台下手脇の?用の場所で伴奏音?や?果音を演奏する。?果音では、太鼓を使った水?を表す音や鉦による寺院の鐘の音など、?器を使ってさまざまな?果を表す
[4]
。
長唄は舞台の正面または上手に
雛段
を設け、そこに
出?子
とともに?んで演奏する
[105]
。義太夫節の床以外での演奏は
出語り
という。常磐津や?元は
山台
という台に上がって演奏するが、山台はふつう常磐津だと舞台下手に、?元は舞台上手に置かれる
[106]
(ただし?元の山台も本?は舞台下手に置くものだったという)。各流派の演奏はひとつの演目の中で??で行うとは限らず、異なる音曲が順番に演奏を??する(掛け合い)ものや、合奏するものがある。たとえば『
京鹿子娘道成寺
』では初めに義太夫が語り、次に長唄が演奏する。また舞踊劇『
紅葉狩
』では常磐津節、長唄、義太夫節が掛け合いで演奏し、これを三方掛合(さんぼうかけあい)という
[107]
。長唄や?瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や??での演奏?も行われている。
歌舞伎座
(東京都中央?)
京都四條南座
2014年現在、歌舞伎の興行は
松竹
がほぼ?占的に行っている。松竹の興行の名?の多くは
大歌舞伎
、
花形歌舞伎
のいずれかの名?がついており(例:三月大歌舞伎)、前者はベテランの役者が、後者は若手の役者が中心となる興行を指す。
歌舞伎のみが演じられる劇場としては
歌舞伎座
があるが、そのほかにも歌舞伎が一定の頻度で行われる劇場として?東では
新橋演舞場
、
?立劇場
、
明治座
、
日生劇場
、
?草公?堂
(
新春?草歌舞伎
)などがある。ほかの地域では
大阪松竹座
、
南座
、
御園座
、
博多座
、
?金毘羅大芝居
(金丸座)、
?子座
、
永?館
、
康?館
などがある。そのほかにも「松竹大歌舞伎」などの名?で全?に地方巡業を行っている。ほかに福岡?
嘉?劇場
、熊本?
八千代座
で行われることがある。
以下、歌舞伎座での興行形態を?明するが、ほかの劇場でもこれに準じた形態で興行することが多い。興行は1か月を?位とし、各月の興行は月末の?日を除いた25日間であり、通常興行中に休演日はない。
基本的に2部制(3部制のときもある)で、午前の部と午後の部からなる。各部は複?の演目から構成されている場合も多いが、?劇の料金は部?位であり、これら演目の料金をセットで支?う必要がある。午前の部は午前11時から午後4時頃まで、午後の部は午後4時半から午後9時ごろまでである。終了時間は公演?容によって異なる。各演目は見取りで上演されることが多い。すなわち人?場面のみの上演となる。
歌舞伎鑑賞の助けとして「筋書」の販?や、「イヤホンガイド」と「字幕ガイド」の貸し出し(いずれも有料)を行っている。
「筋書」は各演目の(上演する場面の)あらすじを書いた冊子(プログラム)である
[注? 30]
。「字幕ガイド」は役者がしゃべっている台詞を字幕で表示してくれる。
イヤホンガイド
は歌舞伎上演中に上演?容の解?を無線で劇場?に飛ばし、?客がイヤホンでそれを聞くことができるサ?ビス(有料)のことである。日本語版、英語版がある。劇場?で料金と保?金を?うことでイヤホンと無線の受信端末を借り受け、終演後にこれらを返却すれば保?金は返される。
イヤホンガイドでは「あらすじ?配役?衣裳?道具??特な約束事など」
[108]
を聞くことができる。また歌舞伎興行では通常各演目は人?場面のみの上演となる(いわゆる見取り方式)が、イヤホンガイドは幕間に上演場面の前後のあらすじの解?も行ったり演目の背景知識を?明したりする。
1975年(昭和50年)11月の
歌舞伎座
顔見世
興行から導入された。邪道と言う者もいるが、イヤホンガイド登場以前も、歌舞伎?劇では、歌舞伎通が歌舞伎初心者に客席でひそやかに解?することがあった。歌を聞く
オペラ
や
ミュ?ジカル
と違い、
台詞
を聞く歌舞伎だから許された?劇習慣だった
[
要出典
]
。
通常の歌舞伎とは演出?興行??などが異なる歌舞伎興行として以下のものがある。
- ス?パ?歌舞伎
:
三代目市川猿之助
(二代目市川猿翁)が1986年に始めた現代風の歌舞伎で、特?としては明治以降の歌舞伎では?視されることが多い外連(けれん)の重視、現代の?値?に沿った演出などがあげられる。新橋演舞場などで上演されることが多い。2015年現在は三代目猿之助が二代目市川猿翁を襲名して事?上?居したものの、
四代目市川猿之助
が後を引き?ぎ「ス?パ?歌舞伎II(セカンド)」と銘打って新たな演目に挑?している。
- コク?ン歌舞伎
:
?谷
の
Bunkamura
の劇場
シアタ?コク?ン
で行われる歌舞伎公演で、古典歌舞伎の演目を新たな演出で上演し、たとえば下座音?の代わりにエレキギタ?やクラシック管弦?を使う。
- 平成中村座
:
十八代目中村勘三?
と演出家の
串田和美
らが中心となり、
?草
の
隅田公園
?に江?時代の
中村座
を模した?設の芝居小屋で行われる。勘三?逝去後は長男の
六代目中村勘九?
が座主を引き?ぎ、2014年7月にニュ?ヨ?クで復活公演を行った
[109]
。
- 前進座
:公演は歌舞伎のみならず、?史劇、現代劇や子ども向けミュ?ジカルなど多彩。?年5月の
?立劇場
公演を中心に、
南座
での初春公演、2月
?立文?劇場
公演、9月の
?立文?劇場
公演、秋の名古屋公演など都市部のみならず、地方での巡業公演も積極的に行っている。
- 超歌舞伎
:2016年の
ニコニコ超?議2016
より行われている公演で、バ?チャルアイドル
初音ミク
と
二代目中村獅童
を中心とした歌舞伎役者が
NTT
による最新テクノロジ?を?使した演出により共演する。2019年8月には京都南座での公演も行われている
[110]
。
- 六本木歌舞伎:
十一代目市川海老?
を中心とした新作歌舞伎の公演で、
三池崇史
が演出している。2017年の六本木歌舞伎
座頭市
では女優の
寺島しのぶ
が盲目の少女と花魁で出演
[111]
。
- システィ?ナ歌舞伎
:
複製?
の展示施設である
?島?
鳴門市
の
大塚?際美術館
システィ?ナホ?ルで行われる公演。2009年に初演されて以?ほぼ?年の恒例行事となっており、「和と洋のコラボレ?ション」をテ?マとして水口一夫による書き下ろし新作が上演される。
- ??歌舞伎
:
??秀明
を中心とした歌舞伎公演で、前身の「??演舞城」から改題。バンジ?やフライング、イリュ?ジョンなどの要素を取り入れている。2019年以降は「??歌舞伎ZERO」に改題。
1955年から1983年までは
東?
も歌舞伎を行っていた(
東?歌舞伎
)。また歌舞伎以外では
劇?新派
の公演に歌舞伎役者が登場することが多い。
?門の演者による公演のほか、地域住民が祭?の奉納行事などとして江?時代以?の?統に則った芝居が日本各地で上演されている。これらを「地芝居」と呼び、歌舞伎と人形?瑠璃のどちらかかが演じられることが多い。歌舞伎では農村で行われる芝居(農村歌舞伎)や都市における
曳山
の上で芝居(曳山祭り)などがある。地芝居における演目の多くは?業の演者による公演と重なり、その影響が?く見られる。しかし中にはその地域?自の演目を備えるなど、個性的な?展を見せている公演も存在する。
- 大向う
を?らす(おおむこうを うならす) - 大向うに座る目の肥えた芝居の見物客の賞?を博する。?じて、人?の人?を集める。
差金と?衣
- 差金(さしがね) - 舞台に舞い踊る蝶?鳥?人魂などの小道具は、長い?塗りの竿の先に差した針金にそれらを吊るし、
後見
や?衣(後述)がこれを舞台上の物陰から操作したが、この
小道具
一式を差金と呼んだ
[112]
。そこから意味が?じて、陰で人をそそのかしたり、入れ知?したりする者がいると思われる場合に、「あれは誰?の差金に違いない」などと言い表すようになった。
- ?衣
(くろご) - 表には出ないものの、なくてはならない存在。?の下の力持ち。ただし「?子」「くろこ」はともに
誤用
が定着した慣用で、正しい表記は「
?衣
」?みは「くろご」。??束に?
頭巾
を着用し、舞台上で役者の介添や小道具を操作する者のことをいう。
- ?幕
(くろまく) - 歌舞伎の?幕は通常夜を表すために用いるが
[112]
、人形?瑠璃の?幕は舞台を操る者をその陰に?すために用いる。そこから歌舞伎でも、舞台裏から影響力を行使して舞台を操る興行主?金主(投資者)?
芝居茶屋
などのことを「?幕」と呼ぶようになった。そもそも?という色に?の意味を絡ませるのは近代になってからの連想で、?時はむしろ
御公議
の「
幕府
」「
幕閣
」や
大相撲
の「
幕?
」などの語にみられるように、「幕」という語には「中に立ち入り難く、?子が見えにくい」という語感があった。ここから「外部の者には?情がよく分からない」という意味で、今日の「政界の?幕」のような使われ方がされるようになったと考えられている。
- 暗?
(だんまり) - 暗桃とも。登場人物が暗闇のなかにいるという設定で無言で立ち回りを演じること。?じて?秘することを「?り」と書いて「だんまり」と呼ぶようになった。
- 二枚目
(にまいめ)?三枚目(さんまいめ) - 一座を構成する配役の番付の上で、思慮分別をわきまえた貫?のある役を務める
立役
の
看板役者
を「一枚目」、美男で人?が高い若衆役を務める役者を「二枚目」、面白おかしい役を務める
道外方
を「三枚目」に?げていたことが語源。現代でも日常的に用いられる言葉として?っている。
- 幕切れ(まくぎれ)?大詰(おおづめ) - それぞれの場(幕)の終わりに引き幕が閉まることを幕切れ、江?歌舞伎の一番目の最後の幕を大詰と言った。現在でも「さしもの事件もあっけない幕切れとなった」、「ペナントレ?スも大詰めを迎えた今週」のように使用される。
- 千?役者
(せんりょうやくしゃ) - 名優と呼ばれる歌舞伎役者の?入は1,000
?
を超えたことから、?じて素晴らしく活躍した人の意味。女形では
初代芳澤あやめ
が
正?年間
(
1711年
-
1715年
)に、
立役
では
二代目市川團十?
が
享保
6年(
1721年
)に、初の年給1,000?を得たという。
- 十八番
(おはこ、じゅうはちばん) - 市川家が得意演目の
歌舞伎十八番
の台本を桐の箱に入れて保管したことが語源となっている。
- 歌舞伎症候群
(かぶきしょうこうぐん) -
常染色?優性遺?
の遺?疾患。特有の切れ長の目が歌舞伎役者の化粧を??とさせることから命名された。
- ^
現在、この女性を「出雲阿?」と呼ぶが、彼女と同時代の文?にはこの名?はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確?がないため、??に用いるべき言葉ではないという意見もある
[9]
。
- ^
この?は?史大?典(吉川弘文館)などにみられる。
- ^
例えば河竹登志夫『演劇?論』。
- ^
高貴な人が一時的に零落して苦難を??する場面
[20]
。
- ^
ここでは『日本の?統芸能講座 舞踊?演劇』の記述に?ったが、「日本大百科全書(小?館、歌舞伎の項、歌舞伎の?史、第2期)では屋根がついたのは享保2年(
1717年
)の出?事になっている。
- ^
日本大百科全書(小?館、歌舞伎の項、歌舞伎の?史、第2期)によれば?文6年(
1666年
)の段階で?み板が客席を貫くように設置された。
- ^
なお「無限の鐘」とは遠江?にある無限山?音寺の鐘で、?川菊之丞はこの鐘を題材にした舞踊を過去にも踊っている。
- ^
?草聖天町。丹波
園部藩
下屋敷を?公した跡地。現在の
?草
六丁目一?。
- ^
「
活?
」という言葉は上述した政府の要求に?する新聞論評の中で初めて使われた
[43]
。
- ^
保持者として
?統歌舞伎保存?
の構成員を?合認定。
- ^
2005年
(平成17年)、三代目中村?治?が、上方歌舞伎の大名跡?坂田藤十?を231年ぶりに襲名した。
- ^
2003年
(平成15年)のユネスコ第32回??において採?され、
2006年
(平成18年)4月に??した。
- ^
?進帳
を嚆矢とする能?狂言に近い?式で演出するものを指す。それ以前に作られた
京鹿子娘道成寺
は能の演目(
道成寺
)を換骨奪胎したものだが、松羽目物とは普通呼ばない。
- ^
歌舞伎は俗に「一番太鼓二番?」と言われ、早朝に始まった。劇場の一番太鼓は?が時を作るころだという意味である
[61]
。
- ^
夜間上演しなかったのは?時の
芝居小屋
では天窓から照明の明かりをとらざるを得なかったため(歌舞伎の夜間上演が行われるようになったのは明治初年になって
ガス?
が使われるようになってからのことである)。
- ^
江?時代後期以降
- ^
「選り取り見取り」から
[62]
。
- ^
?史上の人物に置き換える場合もあり、この場合はやや難しくなる。しかし、たとえば「太平記物」の『
?名手本忠臣?
』では
吉良義央
を
高師直
に置き換えているが、義央が「
高家
」の出(高家=
高氏
)であることを踏まえた置き換えであり、類推できるようにしてあった。
- ^
「付け拍子木」の略
[69]
。
- ^
掛け?をいつかけるかについては、ある程度の習慣がある。
- ^
2代目市川笑也と中村芝のぶは、2012年に?統歌舞伎保存?に入?しており、重要無形文化財(?合認定)である。
- ^
市川月之助は2016年に、市川春猿は2017年に
新派
に移籍した。月乃助は
二代目喜多村??
を襲名、春猿は芸名を
河合雪之丞
と改名している。
- ^
子役は歌舞伎役者の子ども以外では、
?童劇?
に所?する子役俳優や日本舞踊を習っている?童などから選考され、集中稽古で行儀作法や???所作の指導を受けた後に出演となっている。そのため、一般家庭の子弟が歌舞伎役者の目に止まることがある。2014年4月に、松竹により「
歌舞伎アカデミ?こども?歌舞伎スク?ル『寺子屋』
」が開校し、小?校卒業までの年?の?童に稽古を行っている
[79]
[80]
。
- ^
本舞台では距離や時間がリアルであるが、花道ではそうではない。たとえば『?進帳』では義?一行が登場してから本舞台にかかるまで?分だが、都から安宅の?までの時間と距離すべてを表している。弁慶が最後に飛び六法で花道を退場するが、そのときすでに義?はずっと先へ行っている。花道はわずかな長さしかないが、弁慶は何キロも走っているのである。
- ^
?際にはここよりも舞台によった場所
。
- ^
たとえば
妹背山婦女庭訓
の三段目山の段
- ^
例えば
東海道四谷怪談
- ^
例えば
伽羅先代萩
の床下の場。
?門五三桐
や
?砥稿花紅彩?
でも同?の演出がある。
- ^
このためこうした芝居小屋は
緞帳芝居
と呼ばれる事があるが、この呼?がつかわれるようになったのは明治初年のことである
[97]
。
- ^
午前の部、午後の部の?方の演目のあらすじが書いてある。「番付」ともいう。
- ^
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同日文化財保護委員?告示第18?「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」
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“
第3回ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に?する傑作の宣言」について
”. style="background: #ececec; color: #2C2C2C; font-size: smaller; vertical-align: middle; text-align: center; " class="unknown table-unknown"|不明??。
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“
人類の口承及び無形遺産に?する傑作の宣言
”.
文化?
. style="background: #ececec; color: #2C2C2C; font-size: smaller; vertical-align: middle; text-align: center; " class="unknown table-unknown"|不明??。
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大?林(三省堂)
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