元興
3年(
404年
)、東晋を滅ぼして自ら
皇帝
を僭?していた
桓玄
を討伐するため、劉裕に?い決起し、大いに功績をあげている。
義熙
12年(
416年
)には、劉裕の北伐に先方として??し、
後秦
を滅ぼした
。そのときの功により、征虜?軍および琅邪?史となる。
東晋に代わり宋が建?されると、永修?公、南?州刺史となる。
永初
3年(
422年
)、劉裕は檀道?や
徐羨之
、
傅亮
、
謝晦
に後事を託し、死去する。第2代皇帝として
少帝
が?位したが、徐羨之らと共に少帝を?し、文帝を擁立する。元嘉元年(
424年
)、文帝の?位に伴い、征北?軍となる。また、元嘉3年(
426年
)には、少帝?立?殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大?軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道?が
江州
刺史
であった頃、野に下った
陶?
の才能を惜しみ、仕官を?めているが拒絶されている。
元嘉8年(
431年
)1月、檀道?は北伐を?行し、
北魏
の
?城
に到達するも兵糧不足のため撤退する
。やがて宋軍の最高職である
司空
となる。
檀道?自身、才能におぼれるところがあり、そのため、文帝としばしば?立することがあった。またその威勢は天下に奮い、左右の腹心は全員百?の勇者で子弟は皆才?煥?の俊秀ばかりだった
。このため文帝が病に倒れた際、重臣の讒言と?を奪われるという後難を怖れた文帝により殺害されることとなる
。このとき捕らえられた檀道?は、文帝を?みつけながら目の前で頭巾を床にたたきつけ、「自分を殺すことは
万里の長城
を?すことに等しい」と叫んだと?えられている
。
北魏への北伐の際、宋軍は?城まで達するも兵糧不足となり、逃亡者や士?の衰えが出始めていた。やむなく檀道?は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。?に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように??した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が?きていないと思い?んだ。そこで檀道?は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。
『
三十六計
』の
走?上
は、
南?書
の
王敬則
?「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」と「三十六計逃げるに如かず」の語源である
[1]
[2]
。
檀道?の死を知った北魏は「最早宋にはひとりの恐るるに足る者もおらぬ」と喜んだと?わり
、また文帝は元嘉26年(
449年
)に北魏軍が大軍を率いて南下し都にまで迫った際、北方を臨みながら「ああ、今もし檀道?が生きていたら、胡び馬にここまで攻めてこさせるような事はなかったろうに」と嘆息して述べたと?わる
。
- 『
宋書
』?43 列?第3
- 『
南史
』?15 列?第5
- 駒田信二
;
常石茂
『新十八史略4』河出書房新社、1997年7月。