1598年
、
豊臣秀吉
の命を受けて、それまで越後一?を領していた
上杉景勝
が
?津
に移封された後、越後は
福島
30万石に
堀秀治
、坂?2万石に
堀直寄
、村上(本庄)9万石の
村上義明
、そして新?田の
溝口秀勝
といった具合に配置された。
秀勝は
1600年
の
?ヶ原の?い
のとき、
?川家康
の東軍に?して越後に在?し、越後で?生した上杉?臣の一揆
[1]
を??した功績により、家康から本領を安堵され、新?田藩6万石が成立した。
越後?
の
譜代大名
?
親藩
のひしめく中に位置する
外?大名
であった。
秀勝の子?
溝口宣勝
の時に弟の
溝口善勝
に1万石を分?したため、溝口家は?石高が5万石となった。そのうえ、宣勝の子?
溝口宣直
の時代には3人の弟にそれぞれ分?する。なお、分家に
交代寄合
旗本
で
陸??
岩?郡
?田領主の溝口家がある。
藩の領域は現在の
新?田市
の領域に加え、現在の
新潟市
東部?
阿賀野市
?
加茂市
?
南蒲原郡
にまで及ぶ?大なものであったが、その領域の大半を占める
蒲原平野
は、
阿賀野川
?
信濃川
下流域に?がるその名の通り、
蒲
のような水草の生い茂る低?地?であり、そのままでは農耕に適さない土地であった。新?田藩とその領民は代?干拓や治水に力を入れ、新田開?を進めていった。その結果、この地域は穀倉地?となるまでに開?が進み、その?穫は石高の?値を大きく上回るまでになり、?高40万石という?もある。この地域にいくつか?る?時の
豪農
の邸宅の遺構からは、?時の?子がうかがわれる。
八代藩主?溝口直養が
藩校
?
道?堂
をつくったことにみられるように新?田藩主は代??問を??し、城下町は繁?した。
元?
の世に4代藩主?溝口重雄が
江?
から
幕府
お抱えの
庭師
である
縣宗知
を招いて築庭させた、京風の廻遊式庭園である
?水園
からは、?時の文化の繁?ぶりがうかがわれる。
その後、11代藩主?
溝口直溥
の代になって、10万石への高直しを幕府に申請し、認められた。これには、家格が上がるというメリットの一方と、財政窮迫の折りの高直しはかえって過?な加役を加えられるのではデメリットを心配する?も上がり、藩?で論?が起こった。
戊辰??
では、新政府側よりの立場をとろうとするも、周?諸藩の
?羽越列藩同盟
の?力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新?田藩を??させようと謀り、藩主?
溝口直正
を人質にとろうと試みたが、新?田藩の領民の?い抵抗に遭って阻止される。その後、新?田藩は新政府軍に合流し??することとなり、その結果、新?田の地は?火から守られることとなった。ただし、この時の新?田藩の行動は
越後長岡藩
などからは明らかな裏切り行?と見られ、周?地域との間にしこりを?すことにもなった。
ともあれ溝口家は
明治時代
に至るまで、
取り潰し
に遭うことなく、12代にわたって新?田を統治した。
大政奉還
後、
朝廷
は列侯?議を開くため、10万石以上の諸大名に上洛を命じた。これに?じた藩は多くなかったが、新?田藩は幼君
直正
の名代として江?詰家老窪田平兵衛を派遣する。
9月、越後??での正義?を?する
浪人
に?する情報を
?津藩
にもたらす。?津は正義?の取締りと越後諸藩を反薩長に固めるために、新潟町の居酒屋鳥?(とりせい)に諸藩を集めて?議を行なう。「鳥??談」と呼ばれる。今後定期開催することとし、5月に酒屋か津川で開くこととした。(事態が急?し、2月になる)
1月、
仙台藩
士
玉?左太夫
が?藩、新?田の意向を探る。家老の中でも中老格の溝口半兵衛が??する。父半左衛門が家老を?し、その後を?ぎ、このとき36?。肝が据わっていることを買われた。
鳥羽?伏見の?い
の後、
慶喜
追討令が出、
久我通久
から新?田藩には京都の警護のために兵を出すようお達しがくる。上京兵力は、江?から物頭久米三左衛門隊二百名、新?田から物頭佐治藤右衛門隊二百名の計四百名。?隊長は江?詰家老速水八?。
1月10日、京都で?表された
朝敵
の?分は一等?川慶喜、二等
松平容保
(
?津藩
)、
松平定敬
(
桑名藩
)、となっていた。それならばと?津は2月1日、酒屋村の陣屋(
新潟市
酒屋町)に再び越後諸藩を集めて「酒屋?談」を行なう。中央情勢との?連でこの?談を危?と感じて、
高田藩
など欠席した藩も多かった。しかし、新?田藩は、自らの情報提供で第一回が開催されたのだから、二回目を欠席するのは自ら反?津を宣言するようなもの、ということで出席する。代表に七里敬吉?、井東八之丞が送り?まれる。?談は無事終わるが、宴の最中、
新潟奉行所
から、新?田藩の銃兵隊?百人が京都へ向かったという知らせが入る。七里、井東は知らぬ存ぜぬを通すが、藩へ?って調査し返答することを求められる。その後七里がどういった弁明をしたかは不明だが、
?津藩
は「
疑念晴れ候
」とした。
2月15日、北陸道先鋒?督兼?撫使の
高倉永祜
、同副?督兼?撫使の
四?隆平
から
勅書
が?く。この勅書は藩から藩へとリレ?されてきたもので、新?田は
村松藩
から受け取り、
三日市藩
へ渡すものであった。各?の藩の考えを伺いたいという趣旨で、副書に、積雪で?れるので先に書面で通知した、承知したなら請書(うけしょ)を出すように、とあった。翌16日、勅書を三日市に送り、溝口半兵衛は御用人宮北?左衛門とともに
北陸道
を南下した。請書の文言は「恐れながらなお以て忠誠に?み、王事に勤?奉るの外、他念ござなく候」というものであった。
四?隆平
の『北征記事』によると、3月9日に高岡で請書を渡したようである。越後各藩では一番早く、次いで?魚川12日、高田14日、長岡、三根山16日だった。新?田は京都にいる窪田平兵衛を通じて?撫使の?況を知らされていたので素早い??ができた。?照的に
長岡藩
は、
河井?之助
が不在であり、京都筋の情報も持っていなかったことから、?耳に水で薩長勢が?ると思い?んで大?ぎしたという。
藩主の身の安全のことや、朝敵と誤解されるのを恐れ、1月28日、藩主を??させるよう家老4人の連名で書?を出す。使者は大目付里村縫殿、郡奉行三浦四一?。江?では窪田平兵衛、速水八?が京都におり、老?の溝口伊織のみだったため、事が?れ、?許から溝口?匠が?援で出張し、2月22日直正は御用人坂井?馬、入江八?左衛門ら300人余の御供と共に江?を出立。??理由としては、朝廷からの北陸道?撫使が越後へ下向されるので、領?取締りのためということで、幕府の許可も得る。
??の道筋について、?津回りで行くか、信州回りで行くか議論があった。しかし、老練な溝口伊織は、信州回りでいけば、?津からの疑念が?まると考え、いつもどおり?津回りで行くべきと考えた。
?津若松城
下の宿に宿泊中、?津藩家老?
萱野長修
より、激高している若い藩士が不測の事態を起こすかもしれないので、藩主の命により我が藩が宿を警備すると申し出がある。さらに出立のさいには、新?田藩との意思疎通のため、藩士武田五?ほか5名を同行させ、新?田に?在させて欲しいと注文が?る。新?田を監視するためである。どこの藩でもそんなことは認めないものだが、別の難題を持ち出されても困るので、新?田藩はこれを承諾した。直正は3月5日に??の途につく。
直正??の3日後、今度は老候?山が江?を出立。?山は前藩主
溝口直溥
で、持病のため前年に?居していた。筆頭家老の溝口伊織、御用人仙石九?兵衛以下200人余の御供を連れて、15日?津へ到着。?津藩家老
西??母
、藩士西?勇左衛門が新?田の宿にやって?て、溝口伊織と?談した。西?は新?田の諸?の疑念について?山公に?って問いただしたいという。伊織は我が公は持病があるのでお?いさせるわけにはいかない、私が貴藩の藩主に?って弁明すると答える。?津はそれを?り、お互いそれ以上は相手を追い詰めることはしなかった。?津は事ある?に、新?田への憤激を意思表示していく。直正のときと同?、西?勇左衛門が新?田へ同行し、?在した。?津兵の
新?田城
下?在は、特に軍事方の憤激はひどく、上申書を出したり、藩?に?策したりした。
3月30日、
衝鋒隊
50人余が新?田城下に現れる。彼らは2月7日、江?から?走した?兵隊員で、3月8日、下野?田の?いで敗れ、?津に身を寄せていた。?津はまだ謝罪が認められるかもしれない時期だったので、血生臭い朝敵を留めておきたくなく、?よく追い出していた。彼らは
阿賀野川
を下り、3月28日水原へ入る。?督
古屋佐久左衛門
、副隊長
今井信?
らが新?田にどちら側に付くか問い詰める。例によって、事が重大なので?答できないというふうに答えると、新潟へ赴くので同行願いたいと要求される。新潟へ着くと、衝鋒隊は新?田に五千?の借金を申し入れる。新?田は?るが、半ば脅迫的な要求に、五千?を千?にまけてもらい金を貸した。村松なども同?にたかられている。藩?では悔しがり憤るものもいたが、半兵衛は彼らの背後には?津がいるとみて、?忍自重すべきと考えた。他にも坂本兵?率いる
幕府新遊?隊
、
市川三左衛門
率いる
水?藩
諸生?
兵などのうち200名余が新?田城下を訪れ、また五千?の借金を申し?んできた。これも値切って千?を?えた。また?津藩からも米10000俵借りたいと申し出があり、例によって値切って5000俵?えた。同?に?津の
武井柯亭
、
土屋??
らから五万?の借金申し?みがあり、値切って二千??えた。
5月15日、
米?藩
中老
若林作兵衛
、仙台藩玉?左大夫、
鈴木直記
が新?田に?訪。溝口伊織、溝口半左衛門が??。もし同盟に入らないのであれば、事に及ばざるを得ない、という?い?力に、翌日まで回答を待ってもらうことにした。しかし、ここへきては妙案もなく、翌16日、老候?山の了承を得て、回答書を提出し、盟約書に署名した。17日に藩?に
?羽越列藩同盟
加盟が布告されたが、藩?には不服が多く喧?轟?だった。18日、密使井上?之丞が新?田を?つ。仙台から海路で30日江?へ着いた。
江?
には京都警護を終え、東征軍として江?に駐屯していた家老速水八?がいた。井上は列藩同盟加盟を速水に報告。これを受けて速水は6月1日、大?督府?謀へ事情を上申した。米?、仙台、庄?の?力に屈し、やむをえず同盟に加盟したが、勤王の志は?わらぬこと。これに?し、?督府からは、さらに報告があるまで江?の新?田兵は謹?するには及ばないという返事が?る。
同盟に加盟後、新潟で開かれる列藩の?議に新?田も代表の重臣と、守備の兵力を出すことになる。5月19日、新?田城で藩兵の出陣式が行なわれる。組頭堀主計を士大?とし、物頭里村縫殿、服部吉左衛門の率いる200名余、砲 4門が出陣した。この前日に一部が先?し、このうち 2小隊は
庄屋
の子弟で組織された農兵隊だった。堀隊は21日に新潟着。米?藩?督
色部長門
が?るまでは?議も開かれない。前線に1兵でも欲しい?津、米?から?烈な出兵督促がくる。堀は新潟の警備のために?たのだからと?るが、のらりくらり言い?けることはできず、出兵の約束をさせられてしまう。27日新潟を?ち、沼垂で 1泊。翌日
加茂
へ出?しようとしたところ、領民が道をふさぎ、橋を落とし、川にも柵がしてあった。領民が
官軍
とは?わないでくれと懇願。堀隊はこのまま沼垂へ留まる。
是れを領民蜂起の第一となす。けだし
藩士
ひそかに、領民を使嗾(しそう、そそのかす)せしならん
??新?田藩戊辰始末
堀主計隊が出兵督促を受けていた頃、新?田城にも出兵督促が?ていた。6月1日、物頭脇本庫之助、高田忠兵衛、高山安兵衛の部隊が加茂へ出?した。普通に行けば2日の道程だが、4日になっても新津にも到着しない。米?は怒り、加茂の定宿の明田川某に尋ねると、新潟、沼垂に警備にでもいったのだろうかととぼける。6月6日、
新津
に到着。ここで竹槍を持った農民の大群に?まれ進めなくなる。
我が領民四方より馳せ集まりその?、?百千人。我が進軍を阻塞し、歎願して曰く、進軍するなかれ、
官軍
と?うなかれ(是れを領民蜂起の第二とす)
??新?田藩戊辰始末
6月7日、新?田城下で大?なことが起きたという?が入ってくる。この?は根も葉もないことではなく、藩主人質未遂事件に?することのようである。脇本、高田らは藩に無?で新?田へ?る。しかし城下へは入れてもらえず、役職は免職、知行は50石ずつ減らされた。同盟諸藩の手前、?重に?罰せざるを得なかった。後任に、加藤友左衛門、林文左衛門が任命され、加茂へ送るのかと思えば、沼垂へ進?させている。
6月3日、米?藩主
上杉?憲
が自ら1000人余の兵を率い米?を出?、6日に越後下?(
?川村
)に到着。これに先立ち5日、?憲の使者として、軍監
大?新?
が新?田へ急行。直正に下?に?てもらい軍議を開きたいと申し入れてきた。1000人余の米?兵のいるところへ出て?いということは、人質となれということである。6月7日、直正、溝口?匠、少?の藩士が城を出た。しばらく進むと、竹槍を持った領民たちが道を塞いでいた。城下の町民や、五十公野、浜通、新?田、岡方などから集まった農民だった。領?島潟村大庄屋小川五兵衛ら村役人たちが群衆を指揮している。さらに群衆の中には、??した新?田藩士も混じっていた。直正の籠は?水谷の別邸に入り、9日まで?在し、?城した。
領民、その邸を?みて警護せり(是れを領民蜂起の第三とす。けだし三回の蜂起、皆重臣の密計ならん。然れども、今その由る所を詳かにする能わず)
??新?田藩戊辰始末
新?田藩は、諸藩への申し開きのために領民を扇動した首謀者を捕えて見せねばならなかった。首謀者として、折笠泰助、阿部求之丞を?にかけ、下?へ護送していった。米?の取調べは峻烈だった。しかし、2人は新?田へ送り返されてくる。?犯人が小物ではないことを見?いていたからか。藩では彼らを投獄したが、西軍が上陸すると?放している。
領民蜂起の裏には多くの藩士がいたようである。溝口伊織は5月頃、家臣田宮余一を酒癖を理由に追放した。田宮は姿を消したが、?は伊織の密命を受けていたという。6月7日の領民蜂起のとき、あちこち飛び回って、なにか指揮している田宮の姿があった。溝口?匠の家臣小川作兵衛も田宮の同志で、二人は領民の間に地下運動を組織していたといわれる。
6月9日、新?田の郊外、五十公野、佐?木、?野原、島潟堤に米?ら同盟諸藩の軍隊が??集結した。この包?網の外側の、島見、松ヶ崎にも後詰の軍が控えた。米?の大?新?の軍200人余、ほか合計600人を超える兵力だった。新?田藩は、江?に400人余、沼垂に400人余派遣しており、農兵がいたとしても?百人程度。前日8日に、五十公野で同盟諸藩の?議があり、家老の溝口?匠、山崎重三?が呼びつけられていた。出兵させるか、藩主一族は城を立ち退くか、9日夜12時までにどちらかに?じなければ、?攻?に移る、と最後通告を突きつけられた。
新?田を守る隊長は佐治孫兵衛?でございましたが『もし敵を防ぎきれない時は鐘を鳴らすから、その時は新?田が負けそうだと思って、?刻立ち退け』という御布令がまわされていしたから、どうぞ孫兵衛?の鐘が鳴るなら、?に鳴るようにと、祈っていました。家?中?日びくびくして、今日も鳴らなかった、などといっておりました。ところが大雨の降った晩、恐れておりました孫兵衛?の鐘が、突然鳴りました。ああ、とうとう鳴った。このどしゃ降りの最中にと、泣き顔で道具の片付けを始め、めぼしいものを背負って、雨の中を近くの農家に逃れました
??『新?田市史』所?「?土余話」諸橋たま子さんの談話
約束の12時を過ぎても、新?田藩からの返答はない。大?新?は腹心の?孫左衛門を呼び、自分は?身新?田城に?り?むから、一刻過ぎても?ってこなかったら?攻?に移るようにと?える。大?が城へ向かおうとしたとき、馬が?けて?て、溝口?匠らが?て、直ちに出兵する、領民扇動の首謀者 2名(前出の折笠、阿部)を引き渡すと回答した。そして何事もなかったように10日の朝を迎えた。
溝口半左衛門は老候?山から召し出され、新?田兵の?隊長を任ぜられる。6月11日、物頭佐藤八右衛門、溝口四?左衛門以下200名余、砲4門を率いて、
見附
の第一線に向かった。沼垂にいた堀主計隊からも200名余と砲2門が半左衛門の指揮下に入り、見附へ向かった。半左衛門の部隊には米?藩兵が監視のために付いていた。16日に?場に到着。19日、新?田藩の初陣となる。先鋒を命ぜられ、米?の2小隊が
督?隊
としてその後ろについた。さらに、5、6人の米?藩士が直接新?田勢に入り?んで監視した。新?田藩は佐藤八右衛門が負傷したほか、?死4、?傷5の?牲を出したが、米?藩?督
千坂太?左衛門
より「御初陣の御勝利、ひっきょう御世話行き?くの故と、全く感心候」と評?され、現場の指揮官、米?の
?藤主計
も「幣藩を始め、諸藩ともに目を驚かす御勇猛の段、感心致し候。この末は、諸藩の疑念も散じ候はもちろん、及ばずながら幣藩にていずれの義へも、万端引き受け申し候」とした。
6月16日、藩士中野磯平が半兵衛の密命を受け、京都へ?った。26日夜、京都に着き、27,28と?在。7月10日に新?田へ?ってきた。彼は?在中、在京の窪田平兵衛と連絡をとり、新?田藩の立場を新政府に弁明し、その指示を仰いだ。新政府は「新?田藩の行動は微力な藩としてはやむをえないものと太政官も了承した。官軍に敵?しても、時を得て勤王の??を表せば、お家のことは案じなくても良い」と回答した。
7月、在野の民兵隊の
方義隊
は西軍の
?板藩
兵と?之木山を守っていた。その方義隊の一員である新保長三?は新?田領?森組庄?の庄屋で、7月20日ころ隊へ休暇を願い出て、それっきり?らなかった。彼は?岸の溝口半左衛門隊に接?し、その命を?びて、西軍の長岡本?に出頭し、新?田藩出兵の事情の申し開きをしたという。新?田藩は新保に1代3人扶持の恩賞を?えた。
閏4月23日、溝口?匠が江?を出?し、途中西軍に怪しまれ捕えられ
高田
へ護送され、同じ頃、山崎重三?も西軍に捕まっていた。京都の窪田平兵衛は寺田?次?を派遣し、?匠と山崎は5月20日に?放されていたが、今度は寺田が高田で捕まっていた。西軍は新?田を完全には信用していなかった。窪田は今度は、貢士相馬作右衛門を高田へ派遣する。貢士は各藩が新政府へ派遣している藩士で、家老の窪田でも勝手に命令できない。新政府弁事務所にかけあって許可をもらい、6月29日相馬を高田に派遣、7月9日に着いた。そこで藩の事情を詳しく述べ、ようやく寺田も?放された。寺田、相馬はその足で
柏崎
まで赴き、
薩摩
の?謀
吉井幸輔
に?った。吉井は京都の窪田と親しく、新?田の?情もよく知っている人物だった。寺田、相馬は吉井に連れられ
長岡
にいる
山縣有朋
、
?田了介
の??謀とも?った。
折から(七月十三日)?謀
楠田十左衛門
、新?田人寺田某、相馬某の?人を同道して到着したるが、?人の言ふ?によれば、新?田は賊徒のために迫られて、已むを得ず多少の兵を出したりといえども、もとより王師に抗するの意あるに非ざれば、?人??の上、??を?撫して、王師を迎うることとしたし、とのことにて、果してその言に詐りなければ、敵の背後に上陸すべき軍隊は、一層の便利を得るわけなり。よって吉井は同日、?ち十三日に柏崎に赴き、同?において海軍と、打ち合わせをなすことに決したり
??『越の山風』 山?狂介
吉井は二人に密命を?え、旅券を渡し、新?田へ?藩させた。7月20日に新?田に到着。
?田了介を?指揮官とする1000余名の上陸部隊は、7月24日
佐渡
の小木港に寄港し、夜10時より新?田領太夫浜へ向けて出港した。25日朝、西軍は太夫浜に上陸、新?田城下へも知らせが飛び、藩士島村某の1小隊が上陸地点へ急行し、藩の?順を?え、城下へ先導した。半分は新潟方面へ、半分は新?田へ向かった。この夜、溝口半兵衛は、?田と?談し、藩主が柏崎へ赴き、
仁和寺宮
に?謁することによって官軍の疑念を晴らすよう?められる。
市民また自費をなげうち、頗る?待せり
??新?田藩戊辰始末
こういう?況だったので新?田藩は、江?に400人、見附に500人、沼垂に200人派遣しているのに、?座に400人を城下周?に配備させることができた。民兵達の力に負うところが大きかった。
25日朝、沼垂の隊長堀主計も領?津島屋の庄屋?次?からの急報で官軍の太夫浜上陸を知った。彼は高久六?左衛門に命じて、阿賀野川付近に配置していた兵を、本所に集結させ、そこに沼垂から1小隊送り?んだ。さらに農夫に??した吉田斧太夫を、領?寺山新田の庄屋九左衛門とともに、西軍のいる松ヶ崎へ渡河させた。斧太夫は西軍に見咎められ、新?田藩が?順した後であったから、話はすぐに通じて、軍議に?加した。斧太夫が新?田藩の立場を?明し、一同が了承。西軍からは敵の兵力、配置、道筋などの質問があった。斧太夫は敵の防備は手薄で、速やかに進?すべきと進言した。船の準備のため渡河は翌26日、新?田藩兵は官軍には空砲を?つこと、新?田兵は溝口家の五段菱紋を標識とし、官軍はこれには安心して前進してよい、といったことが取り決められた。
堀主計は、新潟の東軍の軍議にも密偵を派遣して情報を?集した。?津藩士
大?新助
が津島屋へ斥候へ行き、新?田が裏切ったことを知り、新潟へ?ると、その密偵はいなくなっていた。その夜、仙台藩士が新?田藩の間者2人を斬り、1人は逃がしたと大?は記述している。西軍が阿賀野川を渡河すると、米?兵は新?田兵と西軍に?み?ちされる危?を感じて、
信濃川
?岸の新潟町まで退却した。26日夜には
芸州藩
の砲兵隊も合流した。堀主計、吉田斧太夫と西軍諸藩で軍議が行なわれた。西軍は東軍兵力を2500人程度と見て早期進?に消極的な論が出たが、『新潟市史』によると、米?300人、?津50人、その他50人程度というのが?態だったようである。信濃川を?んでの打ち合いが26日夜から27,28日と?いた。大砲は薩長の部隊は新?田城へ向かったので、26日夜は新?田の大砲のみ、翌日から新?田と芸州の砲兵が受け持った。?ち合いの間に西軍は、最初の渡河の地点を上流4,5キロの所に定めた。寺山新田の庄屋九左衛門、天神尾新田庄屋雄吾、藤四?、甚助らが渡河用の船30隻を集めてきた。29日未明、庄屋九左衛門は長州藩士
?平謙輔
を案?し、?岸の?密偵察をした。2人の偵察によれば?岸の東軍は意外に手薄であることが分かり、午前4時、渡河を始めた。新?田兵は丹羽?五?ら?名が案?役をした以外は、沼垂での援護射?を命ぜられた。東軍は退却し、米?藩?督色部長門は自害した。色部の首は?屋の?藤家が西軍から守りぬき、11月に色部家へ返された。
7月28日、直正は柏崎へ向けて出?、領?の島見浜から船に?った。御供は、溝口半兵衛、相馬作右衛門、入江八?左衛門ら。軍監
岩村精一?
が案?を務め、翌29日到着。仁和寺宮に?謁。宮からは新?田藩が速やかに?順したことについて、お褒めの言葉があり、今後いよいよ?家のために?力するように、との言葉を賜った。直正は宮が新?田にお進みになるまではこの本?に留まらせていただきたいと申し出、この願いは許可され、8月11日、宮が新潟へ進むとき、先導を命ぜられる。
?況の進展により、仁和寺宮は長岡を?て、13日三?に到着。ここで直正は?藩を許される。以後の先導は溝口半兵衛が務め、このときまでに降伏していた三日市、?川?藩主も新潟から御供をした。東軍の一員として?加していた溝口半左衛門隊は8月1日、三?で降伏。半左衛門は見附で謹?を命ぜられ、新?田兵は西軍の一員となる。江?にいた新?田兵400人余も?藩を許され、8月11日江?を?った。宮を迎えて、越後口の本?は柏崎から新?田へ移った。