第3代藩主?
綱誠
の十一男
[注? 1]
、母は側室?林氏女(和泉)。正室は
近衛家熙
の娘?
安己君
(あこぎみ)。子は八三?(夭折)、養女?三千君(兄?
?川吉通
の娘で?友の姪にあたる、
九?幸?
の正室となる)。幼名は
八三?
。
元服
の後、兄で第4代藩主の吉通より
偏諱
を受けて
通幸
(みちゆき)、次いで
通?
(みちあき)と改め、さらに?軍??川家?の偏諱を受けて
?友
と改める(「友」は祖父?
光友
から1字を取ったものである)。
正?
3年、兄?吉通、甥?
五?太
の相次ぐ急死により第6代藩主となる。長い間「お控え」として、結婚もできず捨扶持を?えられた生活から一躍浮上した嬉しさからか、五?太が?した翌日に側近や家臣を招いて?大な酒宴を開き、これはさすがに不謹?であると
附家老
?
竹腰正武
から?められた
[1]
。
第6代?軍?
?川家宣
は、?友(?時は通?)の兄で尾張第4代藩主であった?川吉通を第7代?軍にしようとした。吉通兄弟の父である尾張第3代藩主??川綱誠は、第2代藩主?
光友
と第3代?軍?
?川家光
の長女?
千代?
の?子であり、
尾張?川家
は、もっとも
?軍家
に近い血筋でもあった。しかし、
間部詮房
や
新井白石
らの反?があり、家宣の?子で生き?っていた鍋松が第7代?軍?家?となる。また、名古屋藩には「?軍位を?うべからず」という不文律もあった
[2]
。吉通が薨去し、家?が危篤に?ると、?軍候補は
和歌山藩
主?
?川吉宗
と、名古屋藩主??友の2人に絞られた。?友は吉通と同じく、?軍家に最も近い血筋であった。しかも、
?白
太政大臣
?
近衛家熙
の次女である安己?と婚約していた。安己は
大?
の?力者?天英院(
近衛熙子
)の姪であり、姉?
近衛?子
は、
中御門天皇
の
女御
になることが決まっていた。間部はじめ家?の幕閣たちは、?友に
?四位下
?左近衛?少??
大隅
守という
官位
を?えており、?友は大?からも幕閣からも、そして
朝廷
からも推されているように見られた。ところが、天英院は姪が嫁ごうとしている尾張家の?友ではなく、
紀伊家
の吉宗を指名し、第8代?軍は吉宗になった。このとき、尾張の附家老であった
成?正幸
と
竹腰正武
など尾張の重臣たちは、「尾張は?軍位を?うべからず」に基づいて、積極的に?友の?軍位就任運動をしていなかった。唯一、間部たちにより、異例の速さで?四位下?
侍?
?
安房
守となっていた?友の異母弟の
松平通?
は、兄の?軍位就任を望んでいた
[注? 2]
。
?友は幼少より金?を蓄積することに熱心、「性質短慮でけち」と領民の評判は今ひとつで
[4]
、前述のように?軍位?承?いに敗れた後は、「尾張大納言」と「尾張大根」をかけて「切干大根」というあだ名があった(ただし、?友は
大納言
に任ぜられていない)。
また、
伊勢神宮
への??とその大麻札を?軍家に上程した日は、朝廷の制中であり
[5]
、時を弁えていない行動も少なからずあった。
一方、綱誠の頃より、第5代?軍?
綱吉
の「御成費用」などで逼迫してきた藩財政の建て直しを?り、役職を整理したり、一族への給?の削減などをして(これらの?置が先述の批判につながる)
[注? 3]
、
享保
13年には金13372?余、米27815石余の?字を?した
[注? 4]
。緊縮財政下にもかかわらず、名古屋の?展も著しく、
江?
の豪商
三井家
越後屋
が再びの出店をし、城下町人口も7万人を超えるに至った。これらが次代?
宗春
の飛躍にもつながったのである
[注? 5]
。
享保15年11月27日(1731年1月5日)に後?者がいないまま
麻疹
のため死去した。享年39。異母弟の松平主計頭通春(後の
?川宗春
)が跡を?いだ。
- 父:
?川綱誠
- 母:和泉(泉光院 林氏)
- 正室:
安己君
(光雲院
近衛家熙
女)
- 側室:右京(岡野 園野 善良院 秋山氏)
- ^
一?に十二男、または十三男。
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通?は、?友が?軍位に就けなかったことを恨み、酒食に溺れて名古屋城下の屋敷に押し?められてしまう
[3]
。
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御連枝川田窪友著に?してはすぐに?に服させている。この明細には、何故か松平通春(
?川宗春
)の記述が見られない。
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この?字は江?時代後期の尾張藩勘定方のメモが典?になっているが、?友が藩主の時に尾張藩の江?上屋敷市谷邸および四谷邸が火災で全?しており、中屋敷?町邸の普請も重なり、幕府より2万?の下賜があり
[5]
、?質は?字ではなかった。これと同じ情報操作が第8代藩主?
?川宗勝
の時代にも行われている。宗勝の時代も尾張藩江?上屋敷市谷邸が全?しているにもかかわらず、?字となっている。
- ^
?友に?しての評?は、本人の能力というよりも
成?正幸
?
竹腰正武
?
石河正章
などの家臣が優れていたおかげである。
- ^
朝日重章
著『
鸚鵡籠中記
』正?3年10月19日?。
- ^
『圓覺院??書二十五箇?』近松茂矩(吉通の側近)著
- ^
『尾張?川家譜』、『?川?紀』など。
- ^
『
名古屋市史
』
- ^
a
b
『?川?紀』