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山?容堂 - Wikipedia

山?容堂

日本の江?時代末期の土佐藩主

山? 容堂 / 山? 豊信(豊茂) (やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ [注? 1] 文政 10年 10月9日 1827年 11月27日 [2] - 明治 5年 6月21日 1872年 7月26日 [2] )は、 幕末 外?大名 明治 初期の 華族 土佐藩 15代藩主。 位階 ?一位 [3] 豊信 [ 要出典 ] ?居 後の ? 容堂 [4] 。土佐藩連枝の 南邸山?家 ?主?山?豊著(12代藩主? 山?豊資 の弟)の長男 [2] 。母は 側室 の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「 鯨海?侯 (げいかいすいこう)」や「?翁」と?した [5] 。藩政改革を?行し、 幕末の四賢侯 の一人として評?される一方で、 尊王 家でありながら 佐幕 派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「?えば勤皇、?めれば佐幕」と揶揄されることがあった [6]

 
山? やまうち 容堂 ようどう / 山? やまうち 豊信 とよしげ
土佐藩主時代の山?豊信
時代 江?時代 後期( 幕末 ) - 明治時代
生誕 文政 10年 10月9日 1827年 11月27日
死? 明治 5年 6月21日 1872年 7月26日 )(44??)
改名 輝衛(幼名)→豊信→忍堂→容堂
別名 鯨海?侯
墓所 大井公園
官位 ?四位下 土佐守 侍? 、?預、?四位上 左近衛?少? 、議定、??事務?裁、 ?二位 ?中納言 、議事?裁取調方?裁、制度寮?裁、?校知事、上局議長、 麝香間祗候 正二位 ?一位
幕府 江?幕府
主君 ?川家慶 家定 家茂
土佐藩
氏族 山?氏
父母 父: 山?豊著
母:?代(平石氏)
養父: 山?豊惇
兄弟 遊稀( 伊賀氏理 室)、 容堂 豊盈
正室: 三?正子 烏丸光政 女? 三??万 養女)
豊尹 、光子( 北白川宮能久親王 妃)、八重子( 小松宮依仁親王 妃のち 秋元興朝 ?室)
養子: 豊範
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生い立ち 編集

文政10年10月9日(1827年11月27日)に土佐藩の分家であった南屋敷(南邸)に山?豊著と潮江村石立の下士平石子の女(名は?代)の長子として生まれる [7] 。幼名は 輝衛 (てるえ) [8] 。輝衛の生家である南邸山?家は石高1500石の分家で、 連枝 五家の中での序列は一番下であった [ 要出典 ] 。通常、藩主の子は 江? 屋敷で生まれ育つが、輝衛は分家の出であったため 高知城 下で生まれ育った [ 要出典 ] 。弘化3年3月7日、父豊著の?居に伴い、輝衛改め豊信は南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の?米を受ける身となった [8]

藩主就任 編集

嘉永元年(1848年)の7月に江?で13代藩主? 山?豊? が死去する [9] 。豊?には嗣子がなかったため、?弟の 山?豊惇 が跡を?ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死し、山?家は御家?絶(お取り潰し)の危機に瀕した [9] 。豊惇の後?としてまず候補に?げられたのは長男?三?であったが、病?のため擁立が見送られることとなった [9] 。次に候補に?げられた豊惇の?弟豊範(後の16代藩主? 山?豊範 )も、まだ3?と幼少であったため擁立は見送られ、最終的に、南屋敷で 部屋住 の生活を送っていたころから英名が?されていた豊信が、後?者として指名された [10] 。豊信の家督相?において土佐藩は豊惇の死を?蔽し [注? 2] 、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の?居と、豊信の相?を幕府に申し出た [12] 。この工作の際には、 薩摩藩 島津?彬 や筑前 福岡藩 ?田?溥 、伊勢 津藩 藤堂高猷 、伊予 宇和島藩 伊達宗城 の周旋があった [11] 。とくに豊?の妻?智鏡院( 候? )の?兄薩摩藩主島津?彬は?時幕府の??を握っていた 老中 首座 阿部正弘 と親交があり、幕府も裏工作を?認した [13] 候?の格別の推?と幕閣に?きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる。 [ ?自?究? ] 嘉永 元年( 1848年 )12月27日、豊信は高知を出?し、翌月21日に江?に到着、同26日に家督の相?を幕府から許可された [11] 。翌年1月8日には豊範を豊信の養子とし [注? 3] 、嘉永3年9月11日に右大臣三??万の養女正?(なおひめ)と結婚した [15] 。同年豊信は?四位下土佐守に任じられ、翌年には侍?に昇任した [15]

藩主時代 編集

藩主就任?時、?居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に?して監視を怠らず、藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない?況だった [16] 。したがって、藩主就任から?年の間、豊信は思い通りに行動できずに酒に溺れ、詩作に思いをぶつける日?を送った [16]

ペリ??港 編集

嘉永6年6月3日にペリ?が浦賀に?港すると、幕府はペリ?から受け取った?書の?しを全?の諸大名に配布し、??の意見を求めた [17] 。?時高知にいた豊信は、この知らせを受けて城に重臣を招集し、意見書の作成をおこなった [18] 。この意見書を起草したのは、?時?識において評判の高かった吉田東洋であった [17] 。作成された意見書はこの年の8月21日に江?に向けて?送され、10月付けで幕府に提出された [17]

藩政改革 編集

幕府への意見書の作成?提出を終えると、豊信は初めて藩政改革に?り出す [19] 。?居していた豊資の了解を得て、嘉永6年9月8日に藩政改革における意見を?表した [19] 。豊信は藩政改革を進めるにあたって、 吉田東洋 と小南五?左衛門を起用する [20] 。東洋は嘉永6年( 1853年 )7月27日、土佐藩の大目付に任じられ [21] 、さらに同年11月28日には「仕置役(?政職)」に任じられた [22] 。東洋は海防?化?人材の登用??砲事業の???洋式造船技術員、航海員の養成など、藩政改革を進めた [23] 。翌 安政 元年( 1854年 )6月、東洋は山?家姻戚に?たる旗本? 松下嘉兵衛 との間にいさかいをおこし失脚、謹?の身となった [ 要出典 ] 。しかし3年後の安政4年( 1857年 )、東洋は再登用され、東洋は後に藩の?政となる 後藤象二? 福岡孝弟 らを起用した [ 要出典 ] 。一方の小南五?左衛門は、小浜酒井家の儒臣山口菅山に?び望楠軒の流れを引く尊王家であった [22] 。嘉永6年10月20日に豊信の 側用役 に?擢され、その後豊信に度?諫言するなど、補佐として仕えた [22]

?軍?嗣問題?安政の大獄 編集

 
山?豊信

豊信は 福井藩 主? 松平慶永 宇和島藩 主? 伊達宗城 薩摩藩 主? 島津?彬 とも交流を持ち 幕末の四賢侯 と?された。彼らは幕政にも積極的に口を?み、老中?阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、 大老 に就いた 井伊直弼 ?軍?嗣問題 で?っ向から?立した。13代 ?軍 ? ?川家定 が病弱で嗣子が無かったため、豊信ほか四賢侯、 水?藩 主? ?川?昭 らは次期?軍に 一橋慶喜 を推していた。一方、井伊は 紀州藩 主??川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる 安政の大獄 である。結局、慶福が14代?軍? 家茂 となることに決まった。豊信はこれに憤慨し、安政6年( 1859年 )2月、?居願いを 幕府 に提出した。この年の10月には?昭?慶永?宗城らと共に幕府より謹?の命が下った。

?居後から大政奉還 編集

豊信は前藩主の弟?豊範に藩主の座を?り、?居の身となった?初、 忍堂 と?したが、後に 容堂 と改めた。容堂は、思想が四賢侯に共通する 公武合?派 であり、?純ではなかった。藩?の勤皇志士を??する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混?をもたらし、世間では「?えば勤皇、?めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる 西?隆盛 から「?純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった [ 要出典 ]

謹?中に土佐藩では ク?デタ? が起こった。 ?田門外の? 以降、全?的に 尊王攘夷 が主流となった。土佐藩でも 武市瑞山 を首領とする 土佐勤王? が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合?派の吉田東洋と?立。遂に文久2年 4月8日 1862年 5月6日 )東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。

文久3年 8月18日 1863年 9月30日 )、 京都 ?津藩 ?薩摩藩による 長州藩 追い落としのための朝廷軍事ク?デタ?( 八月十八日の政? )が?行され、長州側が一???の事態を回避したため、これ以後しばらく 佐幕 派による??の猛威が復活した。容堂も謹?を解かれ、 土佐 に??し、藩政を掌握した。以後、?居の身ながら藩政に影響を?え?けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵?土佐勤王?の大??に?り出し、?員を片っ端から捕縛?投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の?員も死罪などに?せられ、逃れることのできた?員は?藩し、土佐勤王?は?滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から?預に任ぜられ、?政の諮問機?である ?預?議 に?加するが、容堂自身は病と?して欠席が多く、短期間で崩?した。

東洋暗殺の直前に?藩していた土佐の志士たち( 坂本龍馬 ? 中岡?太? ? 土方久元 )の仲介によって、 慶? 2年( 1866年 )1月22日、 薩長同盟 が成立した。これによって時代が 明治維新 へと大きく動き出した。

 
「薩土討幕之密約紀念碑」
密約が締結される前段階として京都「近安?」で?見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山?(祇園)

慶? 3年( 1867年 )5月、薩摩藩主導で設置された 四侯?議 に?加するが、幕府?力の削減を?る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を?ける。結局この?議は短期間で崩?した。しかし同5月21日には、薩摩藩士の 小松?刀 の京都邸において、中岡?太?の仲介により土佐藩の 乾退助 谷干城 と、 薩摩藩 の西?隆盛、 吉井友? らが武力討幕を議して、 薩土密約 を締結。翌22日に乾によって密約の?容が報告され、容堂は大坂でアルミニ?銃300挺の購入を許可した。その後、容堂は乾を伴って、6月初旬に土佐に??。

ところが、容堂や乾と入れ違いに上洛した、坂本龍馬、後藤象二?らは、 薩土密約 の締結から約1か月後にあたる6月22日、京都の料亭にて、 大久保利通 、西?隆盛と土佐藩の後藤、福岡孝弟、 寺村左膳 ???三? が議して、武力討幕ではなく 大政奉還 による 王政復古 を目標に?げ 薩土盟約 を締結した。この薩土盟約は約2か月半で早?に瓦解し、乾と西?が結んだ 薩土密約 が次第に重視せられ、土佐藩全?も徐?に討幕路線に近付いていくことになる。

容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府に恩義を感じて擁護し?けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出?なかった。幕府が委託されている政?を朝廷に返還する案を坂本より聞いていた後藤は、これらを自分の案として容堂に進言した [ 要出典 ] 。容堂はこれを妙案と考え、老中? 板倉勝? らを通して15代?軍??川慶喜に建白した。

慶喜は「 日本? の?に ?川家康 が開いた幕府を、日本?の?に自分が葬る?悟」で慶?2(1866)年12月5日?軍職を?命し [注? 4] 、翌慶?3年 10月14日 1867年 11月9日 )朝廷に政?を返還した。

小御所?議 編集

しかし、その後 明治政府 樹立までの動きは、終始、薩摩?長州勢に主導?を握られた。同年の 12月9日 1868年 1月3日 )開かれた 小御所?議 に於いて、薩摩? 尾張 ?越前? 芸州 の各藩代表が集まり、容堂も 泥??態ながら??して [ 要出典 ] ?議に?加した。豊信は幕府??軍の側に立って意見したものの、?議は岩倉の?に決まり、?川慶喜に?して?官納地を命ずることが決定した [24] 。その後、 有栖川宮熾仁親王 が明治天皇の許可を取った [注? 5] [25]

鳥羽?伏見の?い 編集

慶?4年(1868年)1月3日、 ?幕府側の?砲で 鳥羽?伏見の?い が勃?すると、容堂は自分が土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、藩兵にはこれに加わるなと?命した [ 要出典 ] 。しかし、在京の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自?的に 官軍 側に就いて??に?加した [ 要出典 ] 。同1月7日、西?から「討幕の合?近し」という密書を受け取り、さらに開?したことを土佐在?中に 谷干城 から報告を受けた乾退助は、薩土密約に基づいて 迅衝隊 を率いて上洛した [ 要出典 ] 。容堂は、京都を進?する前夜の2月13日、東山道へ出?する乾率いる土佐 迅衝隊 に、寒いので自愛するよう言葉を?えた [ 要出典 ]

維新後 編集

 
明治初期の山?容堂
 
墓所(東京都品川?東大井)

明治維新 後は名?職の??事務?裁に就いたが、?幕期は家臣や領民だったような身分の者と馴染むことができず、明治2年(1869年)に?職した [ 要出典 ] 。しかし 木?孝允 とは仲が良く、自邸に招いては新政府の??などについて語り合ったという [ 要出典 ] 。本邸は新たに 東京箱崎 の元 田安?川家 別邸を買?して居住した [ 要出典 ] 。?居生活は?時、別?地として知られた 橋場 (現: 東京都 台東? )の別邸( 綾?草堂 )で、妾を十?人も?い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った [ 要出典 ] 。また、 ?? ? 柳橋 などの酒?にて連日豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の?めを聞かなかったという [ 要出典 ] 。また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩?で薩長に?抗できる人物を欠いて新政府の??を奪われたと考え、これを悔やんだともいう [ 要出典 ] 板垣退助 は「維新前後??談」の中で容堂について、「維新後不平から酒を?み芸者を妾にしたが、本?は?み深い人だった」と晩年の?子を惜しんだ?言をしている [26] 。容堂は酒のために身?を?し、明治5年(1872年)正月に中風(?血管障害)の?作を起こして左半身不?、言語不明瞭となった。その後、ドイツ人?師 ホフマン エレキテル 療法で一時回復するも、同年6月に?作が再?して昏倒し、46?( ?え年 )の生涯を閉じた [26] 。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園( 品川? 東大井 四丁目)にある [27]

小御所?議での豊信 編集

小御所?議の場で、豊信は岩倉などと激しい議論を交わした。

?議冒頭に 中山忠能 が、「大政奉還に際し先ず一点、無私の公平を以て、はじめに王政の基本を定める公議を?くすべき」旨を?言し [注? 6] [注? 7] 、公卿の中に「?府(慶喜)は政?を返上したがそれをおこなった目的の正邪が弁じ難いため、?績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると [注? 6] [注? 8] 、容堂は大?を?して議論をはじめ [28] 自分自身直接?議に?加して認めていた 王政復古の大?令 を、それまでの自分の持論であった列侯?議路線、すなわち ?川宗家 ?存路線と根本的に反するが故に、 [ ?自?究? ] 「速やかに?川慶喜を朝議に??させるべきだ」と主張した [注? 9] 大原重? に「?府(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知らないため、しばらく朝議に??させない方がよい」と反論されると、容堂は抗弁し、「今日の(?議?加者の)?動はすこぶる陰?なところが多いだけでなく、凶器をもてあそび、諸藩の武?した兵隊に議場を守らせ、わざわざ?戒態勢を布くにいたってはその陰?さが最も甚だしく、詳らかに理由が分からない。王政復古の初めにあたっては、よく公平無私な心で何事も措置されるべきで、さもなければ天下の衆心を?服させることはできないであろう。 元和偃武 から300年近くも天下泰平の世を開いたのは?川氏ではないか。それなのに、ある朝になったら突然、理由もなくその大きな功績ある?川氏を排斥するとは何事なのか。恩知らずではないか。今、?府(慶喜)が祖先から?承した覇?を投げうって、大政奉還したのは政令に一途だからで、金?無欠の??を永久に維持しようとしたものであり、その忠誠はまことに感嘆するのをこらえがたい。しかも?府(慶喜)の英明の名は?に天下に聞こえている。速やかに彼を朝議に??させ、意見を開陳させるべきである。しかるに、2、3の公卿はどんな意見をもってこんな陰?な暴?をするのか。すこぶる理解しがたい。恐らくは幼い天皇をだきかかえ [注? 10] 、?勢を?もうと欲する意?があるのではないか。まことに天下に??の兆しを作るものである」と、一座を??し、意?軒高に色を成して主張した [注? 11] [注? 12] [注? 13] また容堂は、岩倉、大久保が慶喜に?して?官納地を主張したことについては、 薩摩 ? 土佐 ? 尾州 ? 芸州 が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ?川宗家に?してだけは土地を返納させねばならないのかと?川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政?の政府を?議で主張したことに?して、?川家を中心とする列侯?議の政府を要求した [ 要出典 ] 。松平春嶽も「王政施行のはじめに、刑律の名を取って道?を捨てるのは甚だ不可である。?川氏は200余年の太平を開いた。その功績は今日の罪を償うに足る。よく容堂の言葉を容れるべきだ」と、容堂と共に大論陣を張った [29] [30] [注? 14] 。なお、 岩倉具視 側の記述である多田好間?編『岩倉公?記』では、その際、岩倉が容堂を叱って「これは御前?議である。容堂卿はまさに??すべきである。聖上(明治天皇)は不世出の英材にして、大政維新の大事業を成し遂げられた。今日の?動はことごとく陛下の判?に出たものである。みだりに『幼い天皇をだきかかえ、?勢を?もうとする』などと言うのは、無?の甚だしいものではないか」といい、容堂はおそれて失言の罪を謝った、とされている [注? 15] ものの、 高橋秀直 『幕末維新の政治と天皇』(2007年)では、他の一次史料などに共通して見られないこの逸話は、後から岩倉側によって?入された?構の作り話とする [注? 16] [31] 。なお他の一次史料である『丁卯日記』では、先に 大久保利通 が席を進んで「幕府が近年、正しい道に背いたのは重罪であるのみならず、このたびの?府(慶喜)の?置についてその正否を問うに、無理に尾張候( ?川慶勝 )、越前候( 松平春嶽 )、土佐候(容堂)の立てた?をうのみにすべきではない。事?をみるに越したことはない。まず?府(慶喜)の官位をけなし、所領を朝廷へ?めるよう命じて(?官納地)、わずかなりとも不平の?色がなく??をみることができれば、速やかに??を命じ?議に?加させればよい。もしこれと違って、一点でも要求の受け入れを拒んだりふせいだりする?色があれば(大政奉還は)いつわりなので、?際に官位をけなし領地を削り、?府(慶喜)の罪と責任を天下に示すべきである」といい、岩倉は大久保の?に追?して周りにも採用するようしきりに?め「(慶喜の)正邪を見分けるに、空論で分析するより、?績を見て知るべきである」と弁論と極め、容保?春嶽らと?立し互いに正論と信じる主張をして決着しなかった、とされている [注? 17] 。こうして?議は容堂らの張る堅固な論陣のもと一旦休?することになった。?議出席者である芸州藩主? ?野長? 『?野長?自??』(1937年)によれば、休憩中に、?議に?加せず警戒諸軍の指揮に就いていた西?隆盛は、薩摩藩の者に?議の?情を?くと、驚く?配もなく「短刀一本あれば片が付く」と、?を示した [注? 18] 。この西?の言葉を?くと退いて休憩室に入った岩倉は [32] 、「容堂がなお固く同?の論陣を張るつもりなら、私は非常手段を使って事を一呼吸の間に決するだけだ」と心に期した [注? 5] 。岩倉は?野を一室に誘って「薩土(薩摩藩と土佐藩)の間で議論が大いに衝突している。これによって遂に維新の事業も水泡に?るだろう」と深く憂慮する旨の?言をし、?野へ(容堂の部下である) 後藤象次? を?得せよ、と依?した [注? 19] 。そこで?野が岩倉へ「私は(岩倉)卿の論が事理の?然とする。今、(自分の部下の) ?維岳 に命じて後藤を?得させ、(岩倉)卿の論に?わせようと?っている。後藤がもしうなずかなければ、私は飽くまで容堂に抗弁してやめないであろう」といった [注? 5] [33] 。五藩重臣の休憩室で後藤が 大久保利通 へ容堂の主張に?わせようとするものの、?に同じ休憩室にいた?が岩倉の論に抗弁する事は不利だと後藤へ遠回しに諭していたために、大久保は聞き入れなかった [注? 5] 。それまで主君である容堂の?を推し、陰?を排して公正に出るよう一同に諭してやまなかった後藤だったが [注? 20] [34] 、事の趨勢に大いに悟ったところがあり、容堂と春嶽をみて「先ほど(容堂と春嶽らの)主張された立派な議論は、さも?府(慶喜)公がいつわりのはかりごとをお持ちになっている事を知り、それを?そうとしているかのごとく(?議?加者らに)嫌疑されている。願わくばもう一度考え直されんことを」といった [注? 5] 。明治天皇が?に席に着き、親王と諸臣が再び集まり?議を?けようとした。ここで容堂は心が折れ、敢えて再び、論?しようとはしなかった [注? 5]

官職および位階などの履? 編集

※日付=??

  • 嘉永 元年( 1848年 )12月27日、藩主となる。
  • 嘉永2年( 1849年 )、兵庫助を?する。
  • 嘉永3年( 1850年 )12月16日、 ?四位下 土佐守に?任。
  • 嘉永5年( 1852年 )12月16日、 侍? 兼任。
  • 元治 元年 1864年 )4月18日、?四位上に昇?し、 左近衛?少? に?任。土佐守如元。
  • 慶? 3年( 1867年 )12月9日、維新政府(以下「政府」とする)議定に就任。
  • 慶?4年( 1868年
    • 1月14日、??事務?裁兼任。
    • 1月21日、??事務?裁依願免職。
    • 閏4月21日、議定解任。
    • 6月3日、 ?二位 ?中納言 に昇??任し、政府議政官の上局たる議定に就任。
    • 改元して 明治 元年9月19日、議事?裁取調方?裁を兼任。
    • 12月13日、?校知事も兼任。  
  • 明治 2年( 1869年
    • 4月17日、制度寮?裁を兼任。議事?裁取調方?裁を止む。
    • 4月20日、?校知事を?任。
    • 5月7日、制度寮?裁解任し、上局議長に就任。
    • 5月15日、議定?任に伴い上局議長を止む。
    • 5月17日、?校知事就任。
    • 7月9日、?校知事依願退職し、 麝香間祗候 となる。
    • 9月26日、 正二位 に昇?。  
  • 明治5年( 1872年
    • 6月21日、薨去。
    • 6月28日、贈 ?一位

人物 編集

  • 26?にして門閥??臣による政治?制を憂い、吉田東洋を見出して「?政職」に置き、家老らの反?をさえぎって、西洋軍備採用?海防?化?財政改革?藩士の長崎遊??身分制度改革?文武官設立による?問??などの藩政改革を?行した。しかし、自らを「鯨海?侯」と?すなど世捨て人のようなところがあって、酒を欠かさず?んで情が入っての意見の?化が多い [ 要出典 ]
  • 武芸 に秀でて、 軍? 北?流 弓術 は吉田流、 馬術 大坪流 槍術 以心流 ?術 無外流 居合術 は14?で 長谷川流 を?び18?で 目? を得た。特に居合の腕前は凄まじく、 板垣退助 に「七日七夜の間休みなしの稽古を?けた。?人の家?がこれに?加したものだが、あまりの烈(はげ)しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものは、わずか二人か、三人にすぎなかった」(史談?速記?)といわしめている。
  • 漢詩を箕浦万次??文章は 松岡毅軒 に?んだ。
  • 豊信は自分を戒めるために「忍堂」という額を部屋に飾っていたが、勉?熱心で維新派の面?などと交流することが多く、ある時、 水?派 の代表的な?者の 藤田東湖 がこの額をみて、「指導者は、ただ忍ぶだけではいけません。多くの衆の意見を容(い)れることが大切でしょう。それこそ人君の?と申せましょう」という言葉に、深く同意し、「容堂」と改めた。
  • 山?豊範が 毛利敬親 の養女と結婚していたために、長州藩?係者とは行き?があった。このために 周布政之助 から暴言を吐かれたこともあった。
  • 豊信自身の?居部屋の 欄間 に「?擁美人?」という額偏を?げていたが、大名間ではかなり評判で、 毛利敬親 に?する記?「?余集」や 松平慶永 の「逸事史補」でこの額偏に?れている。ちなみに毛利敬親はこの額偏を見た話をした近侍に?して「24万石の大名なのだから美酒でも佳人でも好きなだけ得られるではないか。そういう身分にありながら、あえてこの額偏を?げているのは自ら豪傑をよそおうものだ」と微笑して言ったという(萩市史?第一?)。
  • 英?外交官 ミットフォ?ド は、「容堂公は五十年ばかり前の英?の政治家に似て、放?な道?者であった」と回顧?に記している [35]

系譜 編集

評? 編集

  • 勝海舟 「土佐の山?容堂公は、天資豪宕、?に英雄の資を具えておられた。平生の議論も、人の意表に出ることが多かったが、それのみならず、公は文詩、書、?などの余技にさえ巧みであって、老儒巨工もなかなか及ばなかったという事だ」 [36]
  • 板垣退助 「容堂は全てが非凡でありました。小節には拘はらない英雄豪傑の質であつて、どうも閨房が治まらないとか何とか云ふやうなことを、人が言ひまするが、さうでない、洵(まこと)に其?の?みのあつた人でありまして、マア一般に子孫を大事にするより、妾を置くと云ふことは、日本の風でありましたが、妾と名が付かぬ者には手を懸けたなどといふことは、決して無い人で、洵にそれも?重な人でありました、唯御一新になつてから不平から、酒を?みまして、遂に芸者などを妾にして居つたこともありますから、他から見た人は、どうも閨房の治まらない人であつたかの如く言ひまするが、その?決してさうではありませぬ。洵に情も深い人でありまして、その一例を?ぐれば、木?君が容堂に言うに、『貴所は 吉田元吉 という者をお用いになった?子であるが、あれは非勤王非攘夷論の人であって、どうも奸物である』。そう木?君が言われたら、『それは怪しからぬ事を承る。吉田元吉という者はそんな者ではない。斯斯の者である。土佐の行政??を改革したのは全く彼の力である』と云う話をした。其の折に木?君が『どうもああ云う君に仕えて居れば、?に愉快である。感心なものだ。今日誰も弁護しないところを、それを弁護して、あれは私が愛した者であるというお話をせられたが、どうもああ云う情の厚い人に仕えて居れば、さぞ愉快であろう』。こういうことを木?君が言われたことがある。そういう?であって、小姓などが、脇差を?いて這入らねばならぬところを、つい忘れて行き居るというようなことがあると、コレコレと言って腰を叩いて見せるというような?で、洵に小姓などを叱るということは、滅多に無いくらいの人でありました」 [37]
  • 大?重信
    • 「我?をして大酒を?み、芸者を呼んで?ぐという?暴者は先づ土佐の容堂候くらいの者であったろう。しかし闊達な、大名中では先づ人物であった」 [38]
    • 「身?は左?大きくも無いけれども、美丈夫といったら容堂公だったろう。性質は善良な人だったけれど、豪放で、酒を?み詩を作り、低唱淺酌の風流をも解して居られた。言語態度はすこぶる傲慢で、我?者だったよ」 [39]
  • 三浦梧? 「山?容堂と云う人は、磊落豪宕の?象で、?分?暴の事も遣れば、?暴の事も言う人である。明治四年十月、岩倉公や木?などの洋行する時、??の中村?で、送別?を開き、容堂も行き、 蜂須賀茂韶 も往ったのだ。蜂須賀が何か頻りに??と?って居ると、容堂が突然、『?賊の子孫の癖に、生意?なことを言うな』と怒鳴ったので、蜂須賀はそのまま?ってしまった。『山?容堂と云う人は、酷いことを言う人だ』と言って、木?も驚いて居った」 [40]

脚注 編集

注? 編集

  1. ^ 土佐山?氏は土佐でも古くから「やまうち」と呼ばれており、江?幕府が編集した『完成重修諸家譜』にも「やまうち」のふりがながある [1]
  2. ^ 豊惇の死が?表されたのは翌年の嘉永2年2月28日のことであった [11]
  3. ^ 豊信には側女との間に郁太?という男?が生まれていたため、次期藩主を早い段階で指名することで無?な嫌疑を避ける目的があったとされる [14]
  4. ^ ?川慶喜の口述記である『昔夢?筆記』で慶喜自身が語る大政奉還の動機??緯は、以下。慶喜は「日本?の?に ?川家康 が開いた幕府を、日本?の?に自分が葬る?悟」で1866(慶?2)年12月5日、30?のとき?軍職を?命した、という。???一?編、?川慶喜?著『昔夢?筆記 ?川慶喜公回想談』第一「?軍職を襲(つ)ぎ給いし事」(平凡社、1967年)「昭?公薨じ給いし時、板倉伊賀守(勝?、後に松?(しょうそうと?す)永井主水正(?志(なおむね)、後に介堂(かいどう)と?す)は御遺命と?し、予に相?を?めてやまず。予は「先年御養君の一件(※?軍?嗣問題か)ありて、予に野心ありしごとく世に?えられしことあれば、今もし足下等の言に?わば、いよいよ世評を?にするものなれば、受け難し」とて拒みしに、仰せ誠に御道理にはあれども、今??艱難の際、貴卿ならでは局に?り給わん人なし。とかくの御議論なくして受けさせ給うべし」という。されど予は、なお?して?かず、「たとい朝廷より御沙汰ありとも御受けはするまじ」といえるに、?人は「決して朝廷の御沙汰を請うようの事は仕らず。ただ誠意をもって、貴卿の御許諾を待つのみなり」とて、それより後は日よりに?りて、「今日はいかに、今日はいかに」と迫るのみなりき。されば予もこの間に思い運らす節ありて、密かに原市之進を召して衷情を語り、「板倉?永井の?人には、先年の御養君一件をもって?とせしも、?を云わば、かかることはいずれにてもよし。ただ熟(つらつら)考うるに、今後の?置は極めて困難にして、いかに成り行くらん思い計られず。いずれにしても、?川の家をこれまでのごとく持ち?えんことは?束なければ、この際?然王政の御世に復して、ひたすら忠義を?さんと思うが、汝の所存はいかに」と問えるに、市之進は、「御尤もの御存知寄りなれども、もし一著を誤らば非常の紛?を招くべし。第一かかる大事を決行するに堪える人の候や。今の老中等にては、失?ながら仕果たせらるべしとも思われず。また人材なきにあらざれども、今の御制度にては俄かに?輩を登庸して大事の局に?らしめ難し。さればむしろ力の及ばん限り、御先祖以?の規範を御持?ある方がよろしからん」といえり。かかる次第なれば、予もいまだ政?奉還をこの際に結構するを得ずして、遂に板倉?永井を召し、?川家を相?するのにて、?軍職を受けずとも?むことならば足下等の請に?わん」といいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相?することとなれり。されども一旦相?するや、老中等はまた?軍職をも受けらるべしと?請せるのみならず、外?との?係などもありて、結局これも諾せざるを得ざるに至れり。かかる予が政?奉還(※大政奉還)の志を有せしは?にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本?のために幕府を開きて?軍職に就かれたるが、予は日本?のために幕府を葬るの任に?るべしと?悟を定めたるなり。」
  5. ^ a b c d e f 多田好問?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、160-161頁。「具視退キ休憩室ニ入リ?リ心語ス。豊信(容堂)猶ホ固ク前議ヲ執リ動カザレバ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ。乃チ非?人ニ命ジ茂?ヲ喚バシム。茂?至リ座ニ著ク。具視ニ謂テ曰ク予ハ卿ガ論ヲ以テ事理?然トス。今マ?ニ命ジ後藤ヲ諷諭シテ卿ガ論ニ?ハシメンコトヲ?ル。後藤若シ之を肯ンゼザルトキハ予ハ飽クマデ容堂ト抗弁シテ已マザラントス。?曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次?切ニ一?ヲ?キ豊信ノ議ニ?ハシメントス。一?敢テ?カズ?曹乃チ象次?ニ諷諭スルニ具視ノ論ニ?シ抗弁スルノ不利ナルコトヲ以テス。象次?大ニ悟ル。是ニ於テ象次?ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ?キ曰ク前刻主張セラル?尊議ハ恰モ?府公(慶喜)ガ詐謀ヲ?カル?ヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ。願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ。?ニシテ上再ヒ出御アラセラレ親王諸臣ヲ召シ?議ヲ?カサシメ給フ豊信心折レ敢テ復タ之ヲ?ハス朝議遂ニ決す蓋シ?視ノ論旨ニ?フナリ熾仁親王進ンテ御前ニ候シ以テ宸?ヲ仰ク上之ヲ可シ給フ時已ニ三更ヲ過ク」
  6. ^ a b ?書刊行??編『史籍?纂』?四(?書刊行?、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。「一、爰に再ひ小御所?議之次第を詳?せんとす、如前?上下已に班列に着くの後、中山殿より先一点無私之公平を以、王政之御基本被?建度叡旨之趣御?言に而、夫れより?川氏弊政、殆違勅ともいふへき條?不少、今府?政?を還し奉るといへとも、其出る處之正邪を弁し難けれは、?績を以之を責?すへしなと、縉紳諸卿論議あるに、」
  7. ^ ???一?著『?川慶喜公?』(?門社、1918(大正7)年)第4?、第二十九章 大坂城移徙、小御所?議、183頁。「中山前大納言勅旨を宣べて曰く、「今般?川家より政?返上につき、大政御一新の基本を肇設し、万世不?の?是を建定し給わんとす、各皆聖旨を奉?して公議を?すべし」と。」
  8. ^ ???一?著『?川慶喜公?』(?門社、1918(大正7)年)第4?、第二十九章 大坂城移徙、小御所?議、183頁。「斯くて?議に移れるに、公卿の中には「?府政?を返上したれども、果して忠誠の意に出づるや否やを知らず、宜しく?蹟を以て之を責?すべしとの論盛なりければ、」
  9. ^ 多田好問?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、158頁。「豊信先ツ議ヲ?シテ曰ク速ニ?川?府ヲ召シテ朝議ニ??セシムヘシ」
  10. ^ 小御所?議時の明治天皇は16?である。
  11. ^ ?書刊行??編『史籍?纂』?四(?書刊行?、1911-1912年)「丁卯日記」254頁「土老候(山?容堂)大?を?して、此度之?革一?、陰?之所?多きのみならず、王政復古の初に?って凶器を弄する、甚だ不祥にして?階を倡ふに似たり、二百余年天下太平を致せし盛業ある?川氏を、一朝に厭棄して疎外に付し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を?る時に?って、斯の政令一途に出、王業復古之大策を建、政?を還し奉りたる如き大英?之?府公をして、此大議之席に加へ給はさるは、甚公議之意を失せり、速に??を命せらるへし、畢竟如此暴?企られし三四卿、何等之定見あって、幼主を擁して?柄を?取せられる?としたたかに中山殿(中山忠能)を挫折し、諸卿を弁駁せられ」
  12. ^ ???一?著『?川慶喜公?』(?門社、1918(大正7)年)第4?、第二十九章 大坂城移徙、小御所?議、183頁「松平容堂?を?まして曰く「今日の?、頗る陰?の所?多きのみならず、王政復古の初に?りて凶器を弄すること甚だ不詳にして、?階を開くに似たり。抑元和偃武以?二百余年、海?をして太平の隆治を仰がしめしは?川家にあらずや、然るを一朝故なく覇業を抛ち、政?を奉還したるは、政令一途に出でて、金?無欠の??を維持せんことを謀るものにして、其忠誠感ずるに堪へたり。且?府(慶喜)英明の名は?に天下に聞ゆ、宜しく之をして朝議に?預し意見を開陳せしむべし。畢竟此の如き暴?を企てられし三四卿は幼主を擁し奉りて?柄を?まんとするにあらざるか」と一座を??して意?軒?たり。」
  13. ^ 多田好問?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、158-159頁。「今日ノ?頗ル陰?ニ?ル諸藩人戎?シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不祥尤モ甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ?服セシメル能サラン元和偃武以?幾ント三百年ニ近シ海?ヲシテ太平ノ隆治ヲ仰カシムルモノハ?川氏ナリ一朝故ナク其大功アル?川氏ヲ疏斥スルハ何ソ其レ少恩ナルヤ今マ?府カ祖先ヨリ?承ノ覇業ヲ抛チ政?ヲ奉還セシハ政令一途ニ出テ以テ金?無欠ノ??ヲ永久ニ維持センコトヲ謀ルモノニシテ其忠誠ハ洵ニ感嘆スルニ堪エタリ且?府ガ英名ノ名ハ?ニ天下ニ聞ユ宜ク速ニ之ヲシテ朝議ニ??シ以テ意見ヲ開陳セシムヘシ而ルニ二三ノ公卿ハ何等ノ意見ヲ?キ此ノ如キ陰?ニ?ルノ?ヲナスヤ頗ル?解スヘカラス恐ラクハ幼沖ノ天子ヲ擁シテ?柄ヲ竊取セント欲スルニ非サルカ誠ニ天下ノ?階ヲ作ルモノナリ豊信?騰リ色驕ル傍若無人ノ?アリ」
  14. ^ ?書刊行??編『史籍?纂』?四(?書刊行?、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。「公も亦諄?として、王政之初に刑律を先にし、?誼を後にせられ候事不可然、?川氏?百年隆治輔?之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、諸卿之?漸く屈せんとする」。但しここでいう「公」は誰の事か明示されていない。
  15. ^ 多田好間?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、157-161頁。「?視之ヲ叱シテ曰ク此レ御前ニ於ケル?議ナリ卿?サニ??スヘシ聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ今日ノ?ハ悉ク宸?ニ出ツ妄ニ幼沖ノ天子ヲ擁シ?柄ヲ竊取セントノ言ヲ作ル何ソ其レ亡?ノ甚シキヤ豊信恐悚シ失言ノ罪ヲ謝ス」
  16. ^ 高橋秀直 『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年、 ISBN 9784642037778 )「第二部 新政?の模索と倒幕、第十章 王政復古ク?デタ?、三 小御所?議、1 岩倉具視の一喝をめぐって ~ 2 小御所?議の意味」では、小御所?議?加者らの手になる他の一次史料である『丁卯日記』『嵯峨?愛手記』『?麗卿記』『松平春嶽未公刊書簡集』(12月13日付 松平茂昭宛 春嶽書簡)77頁、『大久保利通文書』二、133~134頁、12月12日蓑田宛書簡、12月21日藩?宛大久保利通書簡)、あるいは明治政府最初の修史事業『復古記』での第二回小御所?議の史料(「春嶽私記」等)、同じく明治政府による『三??美公年譜』(1901年)、同時期の史書である竹越?三?『新日本史』(1891年)、勝田孫?『西?隆盛?』(1894年)、指原安三『明治政史』(1892年)などに同?の記述がみられず、却って最も詳細な一次史料である『丁卯日記』では大久保が先に容堂?春嶽へ「?官納地の後で??させれば慶喜の忠誠に?があるか分かる」と反論、岩倉が大久保に追?し「正邪を見分けるに、空論を以て弁析するより形跡の?を見て(慶喜の?意を)知るべき」と?言する順序?より消極的な?容など『岩倉公?記』と矛盾した記述すらみられることから、岩倉具視側が『岩倉公?記』にのみ、批判しえない?威としての天皇像を定着させるため岩倉が容堂を叱責し容堂が謝罪する場面という、現?には存在しなかった?の逸話を?入した、とする。
  17. ^ ?書刊行??編『史籍?纂』?四(?書刊行?、1911-1912年)「丁卯日記」254-255頁「諸卿之?漸く屈せんとする時、大久保一?席を進んて申陳しは、幕府近年悖逆之重罪而已ならす、此度?府之?置におゐて其正姦を弁するに、?ち尾越土候之立?を信受へきにあらす、是を事?上に見るに如かす、先其官位を貶し其所領を?めん事を命して、一毫不平の?色なくんは、其??を見るに足れは、速に??を命し朝堂に立しめらるへし、もし之に反し一点?拒の?色あらは、是譎詐なり、?に其官を貶し其地を削り、其罪責を天下に示すへしとの議論を?す、岩倉卿是に付尾して其?を慫慂し、正邪の分、空論を以弁析せんより、形迹の?を見て知るへしと論弁を極められ、二候亦正論を持して相決せす」
  18. ^ 手島益雄?編『?野長?自??』(平野書房、1937年)84-85頁。「此の日、西?吉之助は、夜の?議には警戒諸軍の指揮の任に就いてゐて、議席には列しなかったが、同藩の者から?議の?情を?き、更に驚く?色なく『已むを得ざる時は之れあるのみ』と?を示したそうである。」
  19. ^ 手島益雄?編『?野長?自??』(平野書房、1937年)85頁。「乃ち非?人に命じ、余を喚ばしめ、一室に誘って申されるには、『薩土の間、議大いに衝突す。之れに因り、遂に維新の事業も水泡に?せん』と、之れを深く憂慮せられ、余に後藤象二?を?諭せよと依?された。」
  20. ^ ?書刊行??編『史籍?纂』?四(?書刊行?、1911-1912年)「丁卯日記」255頁「象次?は吾公之?を推して、陰?を排して公正に出ん事を諭して止まず」

出典 編集

  1. ^ 平尾 1961 , p.?2.
  2. ^ a b c 山?豊信 | 近代日本人の肖像 ”. www.ndl.go.jp . 2021年11月26日 ??。
  3. ^ 平尾 1961 , p.?247.
  4. ^ 家近 2021 , p.?115.
  5. ^ 家近 2021 , p.?11.
  6. ^ 家近 2021 , p.?9.
  7. ^ 家近 2021 , p.?20.
  8. ^ a b 平尾 1961 , p.?11.
  9. ^ a b c 家近 2021 , p.?26.
  10. ^ 家近 2021 , pp.?26?27.
  11. ^ a b c 平尾 1961 , p.?15.
  12. ^ 平尾 1961 , p.?14.
  13. ^ 平尾 1961 , p.?16.
  14. ^ 家近 2021 , p.?27.
  15. ^ a b 平尾 1961 , p.?17.
  16. ^ a b 平尾 1961 , pp.?17?18.
  17. ^ a b c 平尾 1961 , p.?20.
  18. ^ 平尾 1961 , pp.?19?20.
  19. ^ a b 平尾 1961 , p.?24.
  20. ^ 平尾 1961 , p.?25.
  21. ^ 平尾 1961 , p.?26.
  22. ^ a b c 平尾 1961 , p.?27.
  23. ^ 平尾 1961 , p.?29.
  24. ^ 平尾 1961 , pp.?208?211.
  25. ^ ?富蘇峰 『近世日本?民史 明治三傑』 講談社版、1981年5月、413頁
  26. ^ a b 酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46?のあっけない最期」 河合 敦 bizSPA!フレッシュ 扶桑社 2022.01.22
  27. ^ 山?豊信(山?容堂)墓 ”. しながわ?光協?. 2019年3月15日 ??。
  28. ^ 多田好問?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、157頁。
  29. ^ ???一?著『?川慶喜公?』(?門社、1918(大正7)年)第4?、第二十九章 大坂城移徙、小御所?議、184頁。「松平大?大輔、容堂の?を助けて、「王政の初に、刑律を先にし?誼を後にせられんこと然るべからず、?川家?百年隆治輔?の功業、今日の罪責を償いて余りあり」」
  30. ^ 『大久保利通日記』5?(慶?3年12月)、414頁。「一今夜五時於 小御所御評議越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人」
  31. ^ 多田好問?編『岩倉公?記』下?、小御所?議ノ事、157-161頁。
  32. ^ 手島益雄?編『?野長?自??』(平野書房、1937年)84-85頁。
  33. ^ 手島益雄?編『?野長?自??』(平野書房、1937年)85頁
  34. ^ ???一?著『?川慶喜公?』(?門社、1918(大正7)年)第4?、第二十九章 大坂城移徙、小御所?議、186頁。「(大久保利通による容堂?春嶽への抗弁に)後藤象二?駁して、「王政復古の?は、公明正大の?置に出づるを要す、今日の事誠に陰?に?れり、必ず?府(慶喜)を召して朝議に??せしめざるべからず」といひ、議論紛?たり」
  35. ^ A.B.ミットフォ?ド『英?外交官の見た幕末維新』長岡祥三(?)、講談社<講談社?術文庫1349>、1998年、140ペ?ジ。原著は1915年刊。
  36. ^ 『海舟全集 第十?』
  37. ^ 第4回講演速記? 『維新前後??談』(p.4) 維新史料編纂? 講演速記? ”. ???書館. 2022年1月24日 ??。 所?
  38. ^ 『早?田?話』P90
  39. ^ 『早?田?話』P330
  40. ^ 熊田編 1924 , p.?30.

?考文? 編集

  • 家近良樹『?鯨 山?容堂の軌跡』講談社〈 講談社現代新書 〉、2021年。 ISBN  9784065259108  
  • 平尾道雄『山?容堂』吉川弘文館〈人物叢書〉、1961年。 NCID  BN03030874  
  • 熊田葦城 編『 ?樹?軍??談 』?業之日本社、1924年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983087/24  
    • 三浦梧?の回顧談をまとめたもの。

?連作品 編集

書籍 編集

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公職
先代
正親町三??愛
  知?事
1869年
次代
松平慶永
大?別?
先代
鷹司輔? (→?止)
制度事務局督
  制度寮 ?裁
1869年
議事?裁取調?裁
1868年 - 1869年
次代
鍋島直正
先代
鍋島直正
  上局 議長
1869年
次代
大原重?
先代
(新設)
  知?事
1869年
次代
正親町三??愛
先代
近衛忠房
刑法事務局督
  刑法官 知事
1868年
次代
大原重?