本姓は
佐伯氏
。名は職博(もとひろ)
[1]
[2]
。京都?木町(
上京?
)で佐伯職茂(
主殿大允
、
?四位
伊勢守)の次男として生まれる
[3]
。
13?の時から父の師であった
松岡恕庵
に
本草?
を?ぶ
[3]
。非常に記憶力がよく一度聞いたことは一生忘れなかったという。ところが5年と?たず恕庵が死去、以後は??で本草?を?ぶことになる。そんな中、蘭山は一つの壁に突き?たった。?はそれまでの本草?は
中?
から?わった
李時珍
の著書『
本草綱目
』を元に作られたもので日本固有の
動植物
、
?物
などに適した形をもっていなかった。その事から、蘭山は積極的に山や森に分け入り日本の本草?作りを志した。
通?は喜?、
字
は以文(いぶん)
[3]
。25?で京都丸太町に
私塾
?
衆芳軒
を開塾、多くの門人を?えた。蘭山が?究した本草?は?く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が?立って行ったと言われている。ただ、塾を去って?里に?った後も本草?を?けた者は10人に1人もいない、という(『水火魚禽考諸』)。しかし、?里に?った門人と蘭山との書簡が?多く?り、手紙で?えを請い?けた弟子もいたようだ。
天明
8年
1月30日
(
1788年
3月7日
)、蘭山60?の時、
天明の大火
が?生。私塾?衆芳軒も大火にやかれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は、自身の?究をまとめる著作の執筆をして過ごした。
?政11年(
1799年
)71?の時、幕命により
江?
に移り??校?授方となる。
享和
元年(
1801年
) - 文化2年(
1805年
)にかけて、諸?をめぐり植物の採集。享和3年(
1803年
)75?の時に?究をまとめた著書『
本草綱目啓蒙
』?稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48?が刊行され、日本最大の本草?書になった(この著書はのちに
シ?ボルト
が手に入れ、蘭山を「日本の
リンネ
」と賞?している
[4]
)。
小野蘭山墓
文化7年(1810年)1月27日死去。享年82。墓所は
練馬?
の迎接院。小野家の菩提寺である上京?の
阿?陀寺
には墓はないものの、
過去帖
には記載されている。
?後100年に?たる
明治
42年(
1909年
)
?四位
を贈位され、
小石川植物園
(
東京大?
大?院理?系?究科附?植物園)で「小野蘭山先生百年記念展??」が催された。平成22年(
2009年
)の?後200年記念でも各地で催し物が開かれ、
京都府立植物園
には「小野蘭山?頌碑」が建てられている。
蘭山が?したものに
?
の語源について述べたものがある。?は日本書紀の記述からすでに「?」、「保多留」などと書かれていて語源については諸?ある。
貝原益軒
は火が垂る(垂れる、流れる、こぼれ落ちる)から「火垂る」とし蘭山は星が垂るから「星垂る」としている。
- ^
『蘭山先生生卒考』に??された平井敬義「先師蘭山小野夫子肖像之記」によると、文晁は蘭山の右?顔を?したが、蘭山は左?顔の瘤も?すべしとして左?顔に描く改めさせたという(平野(2011)pp.17,84)。
- 脚注
- ^
根本?代子「小野蘭山」『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小?館、1984?1994。
@
コトバンク
- ^
「小野蘭山」『世界大百科事典』、平凡社。
@
コトバンク
- ^
a
b
c
「小野蘭山」『朝日日本?史人物事典』1994年。
@
コトバンク
- ^
A.J.C.ヘ?ルツ『 新選本草綱目』序論(?文、?浜、1878年)。なお、
白井光太?
はシ?ボルトから「東洋のリンネ」と?えられたとするが、典?が確認できない(小野蘭山?後二百年記念事業?編集??行 『衆芳 小野蘭山?後二百年記念事業報告書 2010』 2010年12月31日、p.39)。
- ^
『官報』第7741?「?任及?令」1909年4月19日。
- 展????
- 平野?監修
練馬?立石神井公園ふるさと文化館
編集??行 『特別展 江?時代の百科?典 -本草?者 小野蘭山の世界-』 2011年9月17日
- 伊藤恭子編集 『江?のくすりハンタ?小野蘭山 ―採?を重視した本草?者がめざしたもの―』
?藤記念くすり博物館
、2012年4月25日