小松崎は
東京市
(現:
東京都?部
)の
南千住
で生まれ、?年期には
日本?家
を志望し
花鳥?
の堀田秀叢(ほったしゅうそう)に?ぶ。しかし、?じて秀叢の弟弟子の?家?
小林秀恒
の下で???家の道を?むことになる。
1938年
に「小樽新聞」に連載の
悟道軒圓玉
の講談小?『白狐綺談』の??でデビュ?し(筆名は「恒方」)、翌?年には科??誌『
機械化
』の??で、??物や空想科?を題材にした?を描き評判になる。本名のほか「三村武」「最上三?」といった筆名を使い分けるなどして『機械化』誌上を賑わせた。
第二次世界大?
ごろには小松崎の描く??は俄然注目されるようになり、
少?民
向け?誌に?記小?の??や、
軍艦
、
?車
、
飛行機
などの??イラストを?多く?表する。
1945年
の
東京大空襲
で生家は全?し、それまでの資料やスケッチも灰になった。
敗?後の復興期、日本を占領した
連合?軍
に群がる子供達の姿を痛?しく思い?を流したという小松崎は、自分の?で子供達を?ます事は出?ないかと考えるようになり、作品作りもより精力的に行うようになる。少年誌向けに表紙や??を?多くの?誌に描き?け、?載された空想科?イラストは?時の少年達に、未知なるものへの想像力をかき立て人?を博した。
1948年
に子供向けの
?物語
ブ?ムが起こり、SF冒?活劇物語『
地球SOS
』が
少年?報社
の月刊誌「冒?活劇文庫」(後に「
少年?報
」へ改題)で作?連載(
1948
-
1951年
)され、
山川?治
と人?を二分した。以後、『大平原?』『平原王』『第二の地球』など
西部劇
物語もの、科?冒?ものと幅?く執筆し大活躍する。?時??に飢えていた少年少女らはまさに、映?を?るように物語と??に魅せられた。?時の小松崎人?は凄まじく、幾つもの?誌に掛け持ちで連載や口?の仕事を抱え、?る間もない程多忙な日?を送った。
1950年代
半ばを境に?物語人?は漫?に押され凋落していったが、
1960年代
には??を知らない世代の子供達の間で?記ブ?ムが?き起こり、各少年誌で
?記漫?
、?み物が人?となった。これを受けて小松崎は、得意分野の緻密なメカイラストを??な媒?で披露、
1970年代
から
1980年代
にかけても多忙な日?は?いた。
小松崎の名?が後世も不動のものとなった要因に、
プラモデル
などのボックスア?ト(箱??パッケ?ジア?トとも言われる)などに使用されるイメ?ジ?イラストを多く手がけたことが?げられる。主に1960年代から
1970年代
にかけてプラスチック製の子供向け玩具が主流となり、プラモデルが飛躍的に製造?普及し始めた頃である。プラモデルメ?カ?として艦船??車を手がける
タミヤ
、
サンダ?バ?ド
の
今井科?
、1/76?車模型の
日東科?
、1970年代の
ロボットアニメ
の
バンダイ
など模型業界の各社から彼は依?を受けた。描かれたイラスト作品は各メ?カ?の要望に合致し、なおかつさらに上回る魅力と迫力があった。?前からのイラストレ?タ?として、第一次プラモデルブ?ムに貢?した第一人者となる。
1961年
?時、タミヤが多額の金型開?費を投入して社運をかけたモ?タ?ライズ?車プラモデル「
パンサ?
タンク」を制作。そこでプラモデルを販?する際の最大のアピ?ルポイントである箱?が小松崎に依?され、タミヤの???況を知った小松崎は多忙であるにもかかわらず快諾した。彼の描く「パンサ?タンク」は、硝煙やオイルの?いさえ漂うような迫力溢れる箱?で??された。よく走る?車プラモと小松崎の?力で製品はヒット商品となり、その後のタミヤの??が軌道に?るきっかけとなった。現在パンサ?タンクの原?はタミヤ本社の金庫に?重に保管されている。以後しばらくは、タミヤを中心としたボックスア?トを描き?け(
1961
-
1972年
)初期の「タミヤ」
ブランド
のイメ?ジ作りに貢?した。のちに弟子筋に?たる
高荷義之
、
上田信
もタミヤの箱?を手がける事になる。またタミヤには小松崎の紹介で優秀な人材が入社している。
1963年
には?時、
柏市
?で模型店主として小松崎邸に出入りしていた橋本健次?が入社し、後に
零?52型
の設計を??、模型愛好家から絶?される。翌
1964年
には小松崎の遠?に?たる長倉大陸が入社し、後に
ミニ四?
ブ?ムの立役者となった
[1]
。
1966年
、タミヤでは社?でイラストレ?タ?を養成する必要に迫られていた所、小松崎の弟子に?たる大西?美が入社し筆を振るった。白地の背景に大西の精密なイラストが載った箱?は、「ホワイトパッケ?ジ」と呼ばれ親しまれた。
その後今井科?も「小松崎メカニカルア?ト」に着目した。?時の
テレビ
放映で話題だったサンダ?バ?ドのキャラクタ?プラモデルを製品化するにあたり、箱?を託すべく小松崎の弟子の高荷義之に仲介を依?し、小松崎の了解を得て描かれた。基地から飛び立つ迫力ある箱?は、
1967年
に??された「サンダ?バ?ド2?」を空前の大ヒット?ブ?ムをにする原動力となった。サンダ?バ?ドはシリ?ズ化され、殆どのボックスア?トを小松崎が引き受けている。主役メカ以外のボックスア?トにも必ず「サンダ?バ?ド2?」は描いて欲しいと今井科?の要望を受け入れ、すべての箱?にそれが描き?まれた。?時の今井科?の
1968年
度?上げ目標20億を上回る26億円を達成するほどに人?を博した結果、他のメ?カ?からも作?依?が殺到することとなった。
1970年
以降、日本のプラモデル産業の成長に伴い、世界各?での需要がある
?車
?
飛行機
?
艦船
模型輸出も活?に行われるようになった。それに伴い精密さを?した箱?の背景に描かれた「箱に入っていない物」は誤解を招き、輸出の障害となることが問題視される。輸出に力を入れ始めたタミヤでは、「背景には製品に含まれないアイテムは描かないこと」を依?先の?家?イラストレ?タ?らに通達した。主な輸出先のアメリカの消費者??に配慮ということである。
商品イメ?ジを膨らませるダイナミックで「ドラマチックな背景?構?」小松崎路線から、「精密な資料性の高い箱?」への?換が始まる。タミヤでの箱?の仕事は
1971年
、1/700
ウォ?タ?ラインシリ?ズ
の?逐艦が最後となった。以後、??市場が主力の模型メ?カ?日東科?などの?車AFVや、キャラクタ??トイ向けのバンダイからの仕事が?え、アニメ?特撮物など小松崎の得意とする動きのある構??背景を生かした箱?を手がけた。
1990年
に?行された?集には
石ノ森章太?
、
ちばてつや
、
川崎のぼる
、
松本零士
といった名だたる漫?家達が??の?を載せており、小松崎の?物語を大いに愛?し、影響を受けたといった言葉が述べられている。
藤子不二雄ⓐ
に至っては、ペンネ?ムを「小松原滋」にしてサインも?似した程であったという。あまり語られないが、小松崎がのちの漫?界に?えた影響は非常に大きかったと言える。
また、小松崎本人も『
週刊少年サンデ?
』1975年9月28日?で「大正12年9月1日11時58分44秒!
?東大震災
」と題し、南千住で被災した?東大震災の??談を漫?化した32ペ?ジの?み切り漫?を執筆している。
小松崎はジャンルに囚われず次?と新趣向の作品を輩出し?け、晩年になっても筆を置くこともなくMIX-UP?CDジャケットや
PlayStation 2
の
メタルギアソリッド2
限定版付?冊子?イラスト(これが商業イラストとしては最後の作品となった)など多方面に活躍した。
1995年
1月に愛犬用の暖房からの出火が原因で自宅兼作業場が全?、?万点に及ぶ作品と膨大な資料を?失したものの「?はまた描けばよい」と力?い創作意欲を見せ周?を驚かせた。
1996年
には、創刊された中古ゲ?ム?誌『
ユ?ズド?ゲ?ムズ
』の4?から15?までと一部の?集編の表紙を??した。
晩年は足腰こそ弱っていたが語り口は明瞭であり、
インタビュ?
を受けると2時間以上延?と?り?け、
ズボン
は
タバコ
の灰を落とすくせがあるのでいつも穴だらけなのも一向に?にせず、相手にはおかまいなく自分が入れた
コ?ヒ?
を何杯もふるまうという、パワフルで人?っこく不思議なキャラクタ?の持ち主だった。
兵器イラストを?多く手掛けたため「
軍?主義
的」と批判されることもあったが、彼自身は兵器の機能美?造形美を愛していた。何より????者として??を忌み嫌い、一貫して反?と平和を訴え?けていた。
2001年
12月7日、心不全で死去。享年86
[2]
。
2023年6月18日に?後22年目にして、オンラインで小松崎茂の作品を?しむことができる「
【公式】小松崎茂ONLINE美術館
」が遺族により開設された。小松崎茂としては初めての公式WEBサイトとなる。