京都
(
三?通
新町東)
法衣
商十一屋?兵衛富岡維?の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を
通?
とし、のちに道昴?道節と?し、明治のはじめ頃、一時
名
を??としたが、しばらくのち百?に改名。
字
を無倦、
?
を??。別?に?人、?史、?崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉?に?んだ。はじめ富岡家の家?である
石門心?
を、15?頃から
大?隆正
に
??
や
勤王思想
を、
岩垣月洲
らに
漢?
、
陽明?
、
詩文
などを?ぶ。
尼僧の
大田垣蓮月
が少年であった??を侍童として育て、人格形成に大きな影響を?える
[1]
[2]
。
安政
2年(1855年)18?頃に、女流歌人
大田垣蓮月
尼に預けられ?陶を受ける。翌年、
南北合派
の
窪田雪鷹
、
大角南耕
に?の手ほどきを受け、
南?
を
小田海僊
に、
大和?
を
浮田一蕙
に?んだ。
文久
元年(1861年)には
長崎
に遊?し、
長崎南?派
の
祖門?翁
、
木下逸雲
?
小?根乾堂
らの指導を受けた。
翌2年、
山中?逸
と出?いをきっかけに、?業で生計を立て始めた。この頃
私塾
を開設。
藤本?石
?
板倉槐堂
?
江馬天江
?
松本奎堂
?
平野?臣
らと交遊した。
維新
後の30?から40代半まで
大和?
石上神宮
や
和泉?
大鳥神社
の
神官
(宮司)を務めた。この頃、大和?の式?社加夜奈留美命神社を復興している。
座右の銘
である「万?の書を?み、万里の道を往く」を??し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、
松浦武四?
との交流から
北海道
を旅し、
アイヌ
の
風俗
を題材にした代表作「?
蝦夷
風俗?」を描いている。
30?で
中島華陽
の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄?兵衛の死に伴い
京都
?屋町
に?居し、終の住?とする。
?育者
としても活躍し、明治2年(
1869年
)、
私塾立命館
で?員になる。
1875年
(明治8年)には山梨?甲府市を?訪する
[3]
。
滋賀?
(
近江?
)に本家があり、甲府柳町(甲府市中央四丁目)に?造所と?業所を構えていた野口家(十一屋)と??は交流があり、明治8年と
1890年
(明治23年)に山梨?を訪れている
[3]
。明治8年には
南北朝時代
の
南朝
の
皇族
?
尹良親王
の足跡を訪ねて
長野?
飯田市
に?在し、駒ヶ根から高遠を?て山梨?へ入り、
?崎市
?由で甲府へ至る
[3]
。同年7月19日には
富士山
へ登頂し、7月21日に甲府へ?ると8月5日まで?在し、甲府市
酒折
の
酒折宮
へ??した。その後、市川大門(
市川三?町
市川大門)で名望家の
依田孝
宅を訪ねると山梨?を後にし、鎌倉?東京を?て京都へ?る
[3]
。
明治23年の旅では同年4月に京を?つと6月まで東京へ?在し、
八王子?
まで?道を利用し、八王子から甲府まで
馬車
?徒?で旅し、
天目山
や
景?院
など武田家ゆかりの地を訪れた
[3]
。さらに再び酒折宮を??すると、6月14日に甲府柳町の野口家に到着している。山梨??在中は
?林寺
や
昇仙?
など史跡?名勝を訪れている
[3]
。
野口家の?主?
野口正忠
(?村)は??をはじめ?多くの文人と交流し、蒐集した美術資料は
十一屋コレクション
(山梨?立美術館所?)と呼ばれる。また、野口家と同じく甲府城下の?近習町(甲府市中央二丁目)に店を構える?服商?大木家の?主である
大木喬命
は正忠や??が明治8年の旅で訪れた依田孝と交流があり、喬命も?多くの美術資料を蒐集した
[3]
。大木家の美術資料は
大木家資料
(大木コレクション)と呼ばれ、「甲斐猿橋?」など多くの??作品を含んでいる
[3]
。
明治26年(1893年)、
京都市美術?校
で?員に就任し、明治37年(1904年)まで
修身
を?える。
明治42年(1909年)2月20日、吐血して
胃潰瘍
と診?される。胃潰瘍を病んだ後は食事にも工夫をこらし、それまでは
鰻
と
蕎?
、小芋を好み、調理も辛みの
煮付け
を好んだとされるが、70?以降は熱粥を常食とした
[4]
。
大正
13年(
1924年
)
大晦日
、
持病
であった
?石症
が?化。京都の自宅にて?する。
享年
89。墓所は西京?是住院。
?業は?を重ねるごとに次第に認められ、京都?年???究?展示?の評議員(
1886年
)、京都美術協?委員(
1890年
)、京都市立日本?年??共進?顧問(
1891年
)、
帝室技芸員
(
1917年
6月11日
[5]
)、
帝?美術院
?員(
1919年
)と、順風?帆だった。この間の明治29年(
1897年
)に
田能村直入
?
谷口?山
らと
日本南?協?
を?足させ
南?
の?展にも寄?しようとした。また
今尾景年
を通して
橋本雅邦
と知己となり、明治?東?壇との交流も深まった。
??は多くの展??の審査員となったが、自らは一般の展??に出品することはあまりなかった。明治30年(
1897年
)以降、自らが評議員である日本南?協?に定期出品している。?助出品という形で、大正9年(
1920年
)
聖?太子
御忌千三百年記念美術展に「
蘇東坡
?」を出している。また大正11年(
1922年
)、大阪
?島屋
で個展を開催している。
「最後の文人」と謳われた??は、
?者
(
儒者
)が本職であると自認し、??は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない?は描かない」「自分の?を見るときは、まず
?文
を?んでくれ」というのが口癖だったという。その?風は博?な知識に裏打ちされ、主に中?古典を題材にしているが、文人?を基本に、大和?、
狩野派
、
琳派
、
大津?
など??な???式を加え、極めて創造的な?自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。80?を過ぎてますます隆盛で、色彩感?の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な?風は近代
日本?
に?自の地位を築き、
梅原龍三?
や
小林秀雄
らが絶?。日本のみならず世界からもいまなお高い評?を受けている。
兵庫?
?塚市
の
?荒神?澄寺
の「
??美術館
」と、
西宮市
の「
辰馬考古資料館
」に多くの作品が??されている。
ウィキメディア?コモンズには、
富岡??
に?連するメディアがあります。
- ?集『????』(1913年)
- ?集『百東坡?』(1922年)
- ?帖『米?墨?』(1923年)
- 印譜
『無量壽佛堂印譜』(
河井章石
の鈐印による自用印印譜)
- 文集『富岡??、
大田垣蓮月
』
- 近代浪漫派文庫2.
新?社
(2007年)
- 『富岡?? ??編.資料編』
京都新聞社
(1991年)
- 「文人?の近代 ??とその師友たち」<Tessai and His Teachers and Friends>
京都?立近代美術館
、1997年
- ^
『彼の土?を成したもの』「時の余白に」芥川喜好 ??新聞2014年1月25日15面
- ^
磯田道史
『無私の日本人』文芸春秋、2012年、330-338頁。
- ^
a
b
c
d
e
f
g
h
山梨?立美術館 編『大木コレクションの名品』1992年、110-111頁。
- ^
宮本義己
『?史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』中央??災害防止協?、2002年、105-106頁。
- ^
『官報』第1458?、大正6年6月12日。