- 大橋家
に?された「天野宗?身分留」という
古文書
には、
武??
の生まれとある。
- 文化
13年(1816年)11月、江?の
本?
菊坂
にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次?。後に天野家の養子に入る
[7]
。
- 文政
3年(1820年)、5?で大橋本家の大橋宗金(十一代大橋宗桂)の門下となる
[7]
。この時期には「菊坂の神童」と呼ばれた
[7]
。同5年(1822年)の加藤看意との四枚落ち?が、記?にある最古の棋譜である。
- 同9年(1825年)、初段となる。
- 同12年(1829年)、14?で二段となる。
- 天保
元年(1830年)12月、15?で三段となる。
- 同3年(1833年)、17?で四段となる。5月24日に中橋木屋忠右衛門方で弘めの?を催している。
- 同4年(1834年)3月、五段に昇段する。上方に旅立ち
[8]
、同年6月5日に
大橋柳雪
と左香落で??する。
- 同5年(1834年)9月、江?に?ったが、同6年(1835年)3月下旬には再び
上方
に旅立つ。途中、
沼津
において米村利兵衛と平手で4?している。そのまま上方で生活するようになる。
- 同13年(1842年)、江?に?ったが、同14年(1843年)には再び京都に?り、妻?する。
- 弘化
2年(1845年)、江?に?る。富次?と改名する。
- 同年9月26日に神田松永町の甲州屋佐吉方で六段弘めの?を催す。ここで伊藤印?(後の
八代伊藤宗印
)と左香落で??する。
- 同3年(1846年)、七段を許される
[7]
。同年、京都に上る
[8]
。
- 同4年(1847年)5月2日、
大阪
難波新地
において七段弘めの?を催す。
- 嘉永
2年(1849年)5月24日、妻が死去する。
- 同3年(1850年)、妻のために京都
深草?光寺
の
初代宗桂
の駒形の墓碑の隣に同じく駒形の墓碑を建立、「?兵」と刻む。台石には宗?門下の49名の名が刻まれた。
- 同5年(
1852年
)、別家を許され、
剃?
して宗?と名?る
[7]
。十一代大橋宗桂ら?棋三家の推薦を得て、伊藤家門下の
和田印哲
とともに「別家」をたてて、
御城?棋
に出仕が許されている
[7]
。同年11月17日、
江?城
の
?書院
で
和田印哲
、
大橋宗珉
(
大橋分家
8代?主)と?局する
[8]
。
- 同6年(
1853年
)、定跡書『?棋精選』を開板する
[7]
。
- 安政
元年(1854年)、
?州路
の旅に出る。
- 同2年(1855年)、
越後路
の旅に出る。
- 同3年(1856年)、御城?棋に出勤。これが宗?最後の御城?棋となった。後妻のフサとの間に宗次?をもうける(7年後に夭折)。
- 同4年(1857年)春、市川太?松、渡??次?を伴い越後路の旅に出る。御城?棋は欠勤し、同5年(1858年)正月まで旅先で過ごした。
- 同6年(1859年)3月28日に市川太?松と右香落で??。26手で指し掛けとなった。これが宗?の絶局となる。
晩年の宗?は?棋は?かったが、素行は?く、酒色に溺れ賭?棋をしていた記述が?されている。『天野宗?身分留』には、表向きは病死ということで寺社奉行に?け出たとあり、?際の死因は別であった可能性がある。法名は玉用院名宗日?居士。墓所は東京
?鴨
の
本妙寺
にある。
- 棋譜も多??されているが、宗?の?力が?きんでていたため、その
手合割
の多くは駒落ちである。定跡書「?棋精選」(
嘉永
6年=
1853年
)、「?棋口?」(?行年未詳)、??集「?棋手鑑」(
明治
10年=
1877年
)などが?行されている。
- ?棋の駒
の書?にも「宗?好(そうほごのみ)」と名付けられたものがある。
- ??師
の
平畑善介
は
?棋
が上手くなりたいなら宗?の棋譜だけを?めと言っている。
- 角使いの名手として知られ、特に安政3年(
1856年
)の?伊藤宗印?における▲1八角は、?棋史上に?る名手として有名である(但し
中原誠
、
佐藤康光
らは、苦心の一手ではないかと考えている)。この他、角を使った好手が多い。
- 江?時代の棋士でありながら、隙あらば動く序盤のスピ?ド感?や、中原?いに類似した?いの使用など現代の棋士と比べても遜色なく、最?棋士候補の一人である。
羽生善治
も「?史上、誰が一番?いと思いますか?」という質問に
升田幸三
と?べて天野の名を?げ「今の目で見たらすごいスピ?ド感溢れる?棋を指している。相手がのんびり指しているのでその?倒的なスピ?ドの違いがよく分かる。現代に現れてもすごい結果を?したのではないだろうか」と評した
[10]
。
- 先崎?
は「香落の上手でのさばきが絶品。さばきのうまさは
久保利明
に匹敵する」と語っている
[11]
。
- 十一代大橋宗桂の弟子ではあったが、八段への昇段が絶たれてからは?棋の家元である
大橋家
、
大橋分家
、
伊藤家
の御三家とは?立に活動し、多くの門下生を育てた。特に天野宗?の四天王と呼ばれた
市川太?松
、渡??次?、
小林東四?
、平居寅吉の4名はいずれも?豪として知られる。このうち、市川太?松は天野の一番弟子であり、?棋太平記の主人公として有名である。また、小林東四?は後に小林東伯齋と名?り、?西名人(大阪名人)と呼ばれた。十二世名人
小野五平
の後?候補として
?根金次?
と?った
井上義雄
や
坂田三吉
は小林の弟子であり、天野の孫弟子にあたる。なお、
小野五平
はしばしば「天野宗?門下」とされているが、これは
京都
に上った時に小野が宗?の指導を受けたことによる。生前の本人も天野宗?門下と自?していた。記?を重視して小野は十一代大橋宗桂門下とする見解もある。
- ^
コトバンク
に??されている
日本大百科全書
(ニッポニカ)、デジタル版 日本人名大?典+Plus、ブリタニカ?際大百科事典 小項目事典、百科事典マイペディア、デジタル大?泉、精選版 日本?語大?典は「あまの そうほ」とし、朝日日本?史人物事典はそうふとそうほの?みを?方とも??している。
- ^
『江?時代人物控1000』
山本博文
監修、
小?館
、2007年、17頁。
ISBN
978-4-09-626607-6
。
- ^
天野宗?の?み方 | ?棋ペンクラブログ
- ^
ただし、?棋家の子息に適?な人物がいない場合、弟子が?棋家の養子となって家を?いだ例は多くある。?際に宗?の弟弟子の上野房次?は
八代伊藤宗印
となり、名人となっている。
- ^
天野の他に?棋の
大橋宗英
や?碁の
本因坊道策
も「?力十三段」と?される。
十三段
の項を?照。
- ^
なお「名人になれなかった、棋聖とよばれる棋士」として、?碁界では
本因坊秀策
がいる。
- ^
a
b
c
d
e
f
g
谷口牧夫.
"天野宗?"
.
朝日日本?史人物事典
.
コトバンク
より
2023年5月2日??
。
- ^
a
b
c
原田泰夫.
"天野宗?"
.
日本大百科全書(ニッポニカ)
.
コトバンク
より
2023年5月2日??
。
- ^
"天野宗?"
.
デジタル版 日本人名大?典+Plus
.
コトバンク
より
2023年5月2日??
。
- ^
「ニコニコ生放送」主催、『「?棋??部24モバイル?棋道場」開設記念【羽生善治名人】特別指導?局』の放送終盤における、視?者からの質問メ?ルへの回答(2011年2月26日)
- ^
先崎?『駒落ちの話』(マイナビ)での
木村一基
との?談。