普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく生活費以外の?りの多額の?入は全て橘?苑に寄付されていた
[10]
。
行政改革を推進する宣?として、
NHK
で『
NHK特集
85?の執念 行革の顔 土光敏夫』(
1982年
〈昭和57年〉
7月23日
)というテレビ番組が放送された。その?容は土光の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。土光の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
- ?後1回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
- 穴とつぎはぎだらけの帽子。
- ?前から50年以上使用しているブラシ。
- 妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの?磨き用コップ。
- 農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりで?る夕食の風景であった。メニュ?は
メザシ
に菜っ葉?味?汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメ?ジを定着させた。
土光は?費節域のため、自家用車をやめバス通勤に切り替えていた。
朝鮮??後の造船不況の支援のため政府が業界に利子補給したことに?連して
リベ?ト
が政界に贈賄されたとして、造船疑獄事件が起きた際に政官財で105人が逮捕されたが、石川島播磨の社長だった土光はその一人だった。土光の?査を??した?事によれば、1954年(昭和29年)4月12日、初?取のため早朝に土光宅を訪ね、夫人に敏夫の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くにといぶかしむと、「今出たところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」と答えた。すぐさまバス停に向かうと果たして土光はバスを待っていた。この時に?事は土光の無罪を確信したと後に述べている
[11]
。土光は午前6時半、家まで?らされ、約1時間、東京地?の?事が家宅?索した。
その後、土光は任意出頭を命じられたため、その日だけ特別に?社から自動車を呼び寄せ、?事と同?。そのまま20日間勾留された。勾留期間の間、壁に向かって
法華?
を唱えていたという。結局、「?係なし」で?放されたのだが、土光はこの事件を踏まえ、「人生には予期せぬ落とし穴がついて回る。公私を峻別して、つねに身ぎれいにし、しっかりした生き方をしておかねばならない」という?訓を得たと振り返っている
[12]
。
土光の取り調べをした
伊藤?樹
(のちの
?事?長
)は、「私は、
東京地?特?部
の平?事を七年もやったから、その間に?事と被疑者として相?した政治家、役人、?社??者は、相?な?にのぼる。拘置所の調べ室で、立ち?いの?察事務官一人のほかは、一?一で、?事は罪の?算を?得し、被疑者はこれに??する。その間に、被疑者の全人格はもちろん、?事のそれも、互いに赤裸?にさらけ出される」「ほんとうの姿、を見ることができたが、感心させられた人が?人いる。それらの人と?うことができたのは、?事冥利につきると思っている。その筆頭が土光さん」「逮捕と同時に、土光さん宅の?索に行った。特?Gメンの一人が??してすぐにいったものである。『いやあ、今日という日は、まいった。?に立派な人だ。 生活はまことに質素。大?社の社長なのに、朝早く、
?電
のつり革にぶらさがって通勤している』」「土光さんは不起訴になったが、事件後、私は、周?の人びとに『財界の事情は知らないし、石川島の社長というのも十分に偉いのだろうが、あの人はもっと偉い人になるような?がする』といったものである」と、著書『秋霜烈日』で、土光について寄稿している。
??連?長になってからも通勤にはバス?電車を利用していた。?長就任後、それまで?長出張の慣例だった「前泊し2泊3日の日程」を全て日?り出張に?更、地方側からの接待を一切?った。後に、北海道や九州といった遠方への出張に?しては、同行する副?長陣からの苦情もあり、「宴??接待なし」「自身はシングルル?ム泊」という?しい?件で1泊のみの出張に?更した。
??連?館
のエレベ?タ?も?客用の1基だけを稼動させ?りは停止。高?ながらも自ら階段を利用して?費削減に努めた。また、夜の?合を?止する代わりに朝食?を頻繁に開いたため、朝に弱い財界首?は困り果てたという。
「これからはシステムを使う時代になるから、?門知識に加えて、幅を?げ(他のチ?ムと)?連する知識を?ぶ必要もあるだろう。(80年代の言葉)」
「(常に頭?を鍛えることが?件だが)人間には150億の?細胞がある。これを若いころから鍛える限り、コンピュ?タに負けるはずがないのだ。なぜなら、普通の人は5%以下の頭?しか使っていないからだ。」
「分かっているのに?行しないならば、分かっていない事と同じだ。」
「これからは?門家に?威を?えて行く必要がある。(80年代の言葉)」
「テクノロジ?の進化だけで、人の心の?足につながるのだろうか。(80年代の言葉)」
「最近は、近所同士でも、??さえしない人間?係になってきた。これからの時代に大切なのは、人間?係ですよ。(80年代の助言) 」
「年寄りは、若者を邪魔しない仕事につくことがよいだろう。一方で、若者も年寄りに、よりそっていくことが大切だ。」
「これからは、日本的である一方で、さらにインタ?ナショナルな感?を持つ人が必要となるだろうね。(80年代の言葉)」
「人間には、人間にしかできない仕事を?えることが大切だ。」
「チャレンジ?レスポンス(ICT分野においても、「チャレンジ?レスポンス認?」というIT用語がある。)」
「知?を出せ、それが出?ぬ者は汗をかけ、それが出?ぬ者は去れ!」
まず、元??連?長の
石坂泰三
や元ブラジル大統領は、土光氏の社?貢?や?力を極めて高く評?した。また、土光敏夫に?する全?的な評?については、?時の大企業の創業者である、偉大な
井深大
、
本田宗一?
などの大物をはじめ、政治家の
田中角?
や中?根元首相までが、土光敏夫を尊敬、または極めて高く評?したことは事?だ。?際に、??の大物からリスペクトされた人物なのである。例えば、SONYの創業者の井深大氏は「最も尊敬する人は、無?件に土光さんと答えたい。土光さんの口からは、やれ石川島だのやれ東芝だのと、自分の利益に直接?係する話題が出たためしがない。」とまで語った。また、昭和天皇やエリザベス女王も、土光氏に?う機?を求めたことも事?であった。(最終的に土光氏の葬儀には、??連、政府?係者、東芝、石播の?係者が大勢集まり、巨大な人の輪となった。これは、?後最大の民間の葬儀とも?えられている。)
土光が示した「知?を出せ」は、企業の中?部の社員に向けた?言だと考えられる。また、20世紀前半において高度な?育(?時の大?は、現在の博士課程のようなレベルに相?する)を受けたため、土光は「?書しろ」という言葉を省略して?えたとも考えられる。?際、土光は午後6時から10時までの時間の使い方が大切で、たとえ、30分から1時間でもよいので、仕事の後に少しでも勉?をすることが重要であると?えていた。よってこの言葉は「
役員や幹部ならば、大量に本を?み、知?を出せ、それが出?なければ汗を出せ、それが出?ぬなら去れ
」という意味だと考えられる。
一方で、松下は無?で出世した人物である。無?なら?然、工場で汗をかきまくり、現場で肉?的に??するプロセスが?育となる。それぞれが受けた?育の違いによって、?者の意見が異なることは?然である
[13]
[14]
。また、社?全?の評?として、つくば万博 (1985年) の開催前に土光氏か松下氏のどちらを?長に決定すべきかの?史的瞬間があったが、土光氏がその?長として選ばれた。大規模な組織をまとめる?力なリ?ダ?シップが、土光氏の特?であった。そして、つくば万博の組織においては、土光氏を先頭に、世界の本田宗一?や井深大が協力していた。
ところで、現代人の立場からすると、一見?しい口調のように思えるが、?際のところ、土光は?しい指導をおこなう一方で、社員を一人も解雇したことがない人物である。また、石川島播磨重工業に勤務していた頃は、「40年間無?刻無欠勤」という記?を達成している。ちなみに?時は、一部の外資系企業を除けば、週6日勤務が常識のような時代だった。また中?部の社員の給?を減らすことで、??の?い社員たちを守り育成した。土光が意識した言葉の一つに「率先垂範」というものがある。リ?ダ?シップを取る立場の人物こそが、率先してよい言動?行動を、周?に示す必要があるという意味である
[15]
。
さらに、土光は他人を批判するどころか、東芝の社長かつ??連?長としての先輩にあたる
石坂泰三
を尊敬していた。本人が?した言葉の一つに、「僕はねぇ、あの野?なんて思ったことはないよ。」があった
[16]
。
著書や自?を週刊誌に連載していたことがあるが、いずれも敏夫へのインタビュ?などを元に
ゴ?ストライタ?
が著したもので、本人が直接筆を取った事は1度もなく、よく「意?と違う事がかかれている」と嘆いていたと、
居林次雄
(?時の土光の秘書。
弁護士
、
富山大?
?授)が自著に記している
[17]
。
テレビ番組?中??での各種情報
(終了した番組?中?を含みます)は、
DVDやBlu-rayなど
での販?や公式な
ネット配信
、または
信?できる紙媒?またはウェブ媒?
が紹介するまで、
出典として用いないで下さい
。
??可能性
に基づき除去される場合があります。
|
「メザシの土光さん」のイメ?ジを定着させた『
NHK特集
85?の執念 行革の顔 土光敏夫』における「妻との夕食風景」について、諸?入り?れている。
2003年
(
平成
15年)3月に「
ア?カイブス特選
」として、この番組が再放送された際、ゲスト出演した
?島龍三
によれば、ある行革に?する集?の終了後、?場の出口で
?草六?
の
婦人?
連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え、出てきた土光と?島に手渡したという。あまりの量で大?な重さだったと?島は述?した。
早房長治
の『
朝日新聞
』
1995年
(平成7年)
2月3日
?の「にゅうすらうんじ」において、?際は故?の岡山?から送られて?た山海の珍味を使った直子夫人の手料理にもしばしば舌鼓を打っていたとし、「テレビなどの演出に?ったのは、『質素なリ?ダ?』のイメ?ジを利用して、行革を成功させるためだったと思う」と、演出ではないかという指摘がなされている。
土光が??連?長を??した頃に、その秘書を務めた居林次雄は、
2011年
(平成23年)に開催された土光敏夫記念講演?
[18]
[19]
で講演し、以下のように?相を語っている。あるとき、100人以上の社長が出席する??連の?食?において、土光が「君達はハマチの刺身ばかりを食べているだろうが、イワシを 10 ?えて、やっとハマチが1採れる。イワシをもっと食え」と言及した。それを聞いた
農林水産省
の
官僚
がメザシを買って持って?て、そこに
日本放送協?
の取材とかち合った。
しかし土光は、18時以降と
土曜日
?
日曜日
の取材は受け付けない。「私邸の夕食に取材は入れられない」と拒否する土光に?し、居林は「?長、なぜ政治家や役人が
行革
に?じないか分かりますか? 財界人が?晩、料亭で豪華な食事をしているのに、役人と政治家だけが質素な生活をさせられるのは、おかしいと思っているのですよ。一度、?長の質素な私生活を見せて頂けると?果がある?です」と?得して、あのテレビ放映になったのだという
[20]
。
元朝日新聞記者の志村嘉一?によると、土光宅には暖房も冷房もなかった。夜回りに行って、本が散らばった書?に通されても?冬でも暖房がなく、空?が?いから少し窓を開けて新鮮な空?を入れ換えるかと言って窓を開け、冷たい空?が入ってきて思わず身震いすることになるが、土光にとっては客人に良い空?を吸わせようとする心遣いだったという。??連?長に就任してから、土光宅を夜回りする新聞記者が?えたため、?時の東芝副社長の岩田?夫(のちの社長)が「東芝は
エアコン
を?っているのだから、その?長宅に我?の製品がないのはおかしい」と考え、それを無理やり設置した。しかし、土光は「冷暖房は、無理に押し付けられたのだ。もっぱら?客用で、一人のときは使わない」と、?しい顔をして、さらに「暑いからク?ラ?、寒いからヒ?タ?なんていうのは?に良くない。東芝社長時代だって僕の部屋にだけはク?ラ?のスイッチを入れなかった。暑い時は暑さにまかせて、汗が出ればタオルで拭けばいいのだ。家の中と外とで?度差が大きいと、かえって風邪を引きやすい。その点、わが家は?に健康的で、僕はカゼをほとんど引かない」と?調していたという
[21]
。
土光氏の自宅からは、日本語以外に英語およびドイツ語の洋書や、古い?書も大量に確認されている。また、自宅で夕食が終わるとすぐに書?にこもり本を?んでいたため、家では無口だった。?宅して食事をとり、その後に?書をおこなう習慣は終生?いた。80?を過ぎても書物と向き合い?けたため、政財界においても屈指の?書家だったようだ。
家にはソ?ラ?システムを設置しようとしたが、?時も家は古く、屋根に置くと、潰れると言われ、わざわざ土台を作って設置した。
自宅には自給自足のための畑も設けていた。
長男の陽一?(1926年生)によると元日も出勤していた
[22]
。
- ^
受?に何度も失敗しているが父親の商?を手助けし、勉?が疎かになったためと言われている。最初に挑?したのは、?立岡山中? のちの岡山 1 中、現在の?立岡山朝日高校。定員140人のところ受?者?は1000人で結果は不合格だったので高等小?校に進?。翌年、再び受?したが不合格。仕方なく、高等小?二年に進?。その後また受?しその時も合格しなかったので?制中?受?だけで合計三回の失敗。?立?校受?を失敗した敏夫はやむなく、岡山市?の私立?西中?(現在の?西高等?校)に進?。
- ^
『土光被夫の生い立ちと素顔』によると、敏夫は代用?員の期間中、さらに?童から?年岡山中?を受?したいので勉?を?えてほしいと?まれ、二つ返事で「火曜日と金曜日が宿直なので、その日に?るように」といった。?童は早速訪れた。それから村で評判となり、次の週から、岡山中?と?西中?の受?を志望する?童が??「自分にも?えてほしい」と現れた。?校の?室を使って夕方から、算?と?語、理科を?え「土光塾」と貸す。?初は二時間ほどの「授業」だったが、時には三時間程度となる日もあったが自らも受?生で、東京高等工業の受?のための勉?をしなければならない。しかし、「勉?したい」という?童の思いに共感し、?えた。その成果が?ったのか、大野小?校では、岡山中?に二人、?西中?に二人が合格。かつてない成果を?げた。子どもの親たちは、土光家にお?として農作物などをもってきた。しかし一切、それらを受け取らなかった。「?師が?童に?えるのは?然です。僕自身が受?生でなかったら、もっと時間を割くことができたのに?みません」と、逆に謝ったという。
- ^
敏夫は?西中?を卒業、東京高等工業(現在の東京工業大?)に挑?したが?時は中?を卒業した場合、三つのコ?スがあった。1つは中?卒業後に高校から帝?大?へ進?する コ?ス。その場合は六年間の?生生活となる。二番目は、東京高等工業のような高等?門?校に進?することでそのケ?スは三年間ですむ。三つ目は陸軍士官?校や海軍兵?校に進むこと。陸軍士官?校などへ進むことについては、極度の近視のため、あきらめた。一つ目の高校から帝大というコ?スを敏夫自身は希望していたのだが、もし六年間の?生生活ならば、土光家では保有する田畑をすべて?却しなければならなくなる。それではその後の弟や妹の?費を出すのが困難になる。二つ目のコ?スである高等?門?校への進?を決め、挑んだのは東京高等工業で?時の高等工業のうち最難?校で、競?倍率は20倍以上。中?受?にも三回も失敗しているため、 ?親にこれ以上苦?をかけたくないと思い、?台いをいれて挑んだが結果は不合格で、これで人生四回目の受?失敗。?時は予備校などもなく、 母校の大野小?校の代用?員となり、雌伏の時を過ごした。 人がやりたがらない宿直番をこなし、受?勉?にいそしんだ。
- ^
就任時の取締役?での??では「社員諸君にはこれから3倍?いてもらう。役員は10倍?け。俺はそれ以上に?く」というものである(『日?に新た - わが心を語る』東洋??新報社、1984年)。
- 先代
- 六岡周三
|
- 石川島播磨重工業社長
- 第2代: 1950年 - 1964年
|
- 次代
- 田口連三
|
- 先代
- 岩下文雄
|
- 東京芝浦電?社長
- 第5代: 1965年 - 1972年
|
- 次代
- 玉置敬三
|
- 先代
- 田代茂樹
|
- 日本インダストリアル?エンジニアリング協??長
- 第2代:1966年 - 1974年
|
- 次代
- 小林宏治
|
- 先代
- 石毛郁治
|
- ?前工業?理事長
- 第22代: 1967年 - 1971年
|
- 次代
- 大久保謙
|
- 先代
- 植村甲午?
|
- 日本科?技術連盟?長
- 第3代: 1977年 - 1988年
|
- 次代
- 鈴江康平
|