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和歌 - Wikipedia

和歌 (わか)とは、 短歌 型式の古典 。古典短歌。?義には『 万葉集 』に所?される歌?の??。

和歌 」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「?」「哥」の字が宛てられることもある。なお、歌?と混同されるおそれがない 文脈 においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。

連歌 俳諧 俳句 狂歌 川柳 狂句 は定型の古典 であるが、一般には 和歌 には含めない。 長歌と短歌を合わせて和歌という分類方法もある。原則的に日本語で作成したものを指し、英語俳句のような外?の短歌は和歌には含めない。 明治 和歌 革新家とその後?者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と?し「 和歌 」とは?さないことがある。 近現代短歌はこの項では取り上げない。

和歌 」の語は 漢詩 に?比される日本語詩を意味する言葉として造られた。『 万葉集 』の題詞に同義の「倭歌」「倭詩」や日本語の挽歌を意味する「日本挽歌」の字句が見られる。なお、『 万葉集 』題詞に見られる「和歌」は?答歌、唱和歌を意味し、この項の「和歌」とは別義である。

和歌については、 素盞嗚尊 が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという??がある。

やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを [注? 1]

現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる 短歌 のことを指す。 古今和歌集?名序 にもこの歌について「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう。しかし和歌には、古くは短歌のほかにも 長歌 旋頭歌 という形式のものがあった。

名? 形式 備考
長歌 五七、五七、…、五七、七 五七を3回以上繰り返し、最後を七音にする。主に公の場でうたわれるもので、 反歌 を伴う。
万葉集 』に多く見られるが、『 古今和歌集 』では5首入集するのみである。
短歌 五七、五七、七 各時代を通して最も詠まれている形式。
旋頭歌 五七七、五七七 片歌の五七七を2回繰り返したもの。 問答歌 が多い。
?足石歌? 五七、五七、七七 短歌の形式に、さらに七音を加えたもの。

『古今和歌集』の?名序(漢文の序)には和歌の種類について「長歌?短歌?旋頭混本の類、??一に非ず」とあるが「混本」というのがどのような形式のものであったかは不明である。また?足石歌?の形式は奈良時代に行なわれたのみであり、その後は?絶している。短歌からはのちに句を五七五と七七に分けて詠む 連歌 俳諧 が?生する。

和歌を詠むことは、古くは貴族をはじめとする?養層にとってはたしなみのひとつであり、男女が詠み交わして自らの心を?える手だてとし、また 歌合 歌? が多く開かれ、そのための和歌が詠まれ披露された。そして詠まれた和歌は個人の 歌集 私家集 )や 平安時代 以降の勅命による 勅撰和歌集 の材料として集められ??されている。ほかには勅命によらずに編纂された 私撰集 がある。

和歌は「 敷島 しきしま 」とも、また「敷島の道」とも呼ばれた。 敷島 とは 大和? や日本のことを意味し、また 枕詞 のひとつでもあり「やまと」という言葉にあわせて使われている。?ち「敷島のやまとうた」「敷島のやまとうたの道」というつもりで用いられた言葉である。

上代

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上代歌?
和歌が現れる以前に、感情の高まりから?せられた叫び、掛け?が次第に成長して、 や??の際に集?で歌われるようになった歌?があったといわれるが、多くは 文字 に記されることなく失われてしまったという。それら歌?が現在見られる五音七音でもって構成される和歌となるまでには、その形式に??な過程や?遷を?たと見られる。現在『 古事記 』『 日本書紀 』『 風土記 』『 万葉集 』『 古語拾遺 』『 琴歌譜 』『 ?足跡歌碑 』などに??される韻文を上代歌?と?している [1] が、その多くは五音や七音の句で構成されるなど、すでにかなり洗練された?容となっている。
記紀歌?
『古事記』『日本書紀』に採られた上代歌?を、特に 記紀歌? という [1] 。?立した歌?ではなく、物語の?果を高めるために用いられていることが多いが、宮廷人が歌った儀式の歌?や、創作もあるとされている。 片歌 旋頭歌 短歌 長歌 などの五音と七音を標準とする歌?に、 ?句 、繰り返し、 枕詞 序詞 などの技法が用いられている。
上代歌?は 神?歌 催馬? などの ?器 を伴う 儀式歌 の源流となるが、その歌?、技巧は後の和歌の母胎ともなっている。
万葉集
統一?家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の?持ちを個?に表現する歌が盛んに作られるようになった。それらを大成したのが『 万葉集 』である。万葉集の注記によると、万葉集以前にも『 古歌集 』『 ?本人麻呂 歌集』『 笠金村 歌集』『 高橋?麻呂 歌集』『 田?福麻呂 歌集』『 類聚歌林 』などがあったとされるが現存しない。『万葉集』は長い期間を?て多くの人?によってまとめられたが、最終的には 大伴家持 が現在の二十?の形に編集したのだといわれている。約4500首が?められており、その最も古いものは 仁?天皇 の代のものであるが、大部分は 飛鳥時代 から 奈良時代 中期にかけての約100年弱のもので占められている。 貴族 の歌のほかに 東歌 防人歌 など民衆の歌もあり、現?的、??的な歌風が多いとされる。

中古

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?風文化
平安時代初期には漢詩文が公的な文?として和歌を?倒した。和歌は私的に交わされる贈答歌が主となり、宮廷で詠まれることは奈良時代と比較すると少なくなった。しかし、 遣唐使 の派遣が 承和 年間に途絶した後は、中?人の 海商 が中?の文化や文物をもたらすようになり、貴族たちの間で中?の文化や文物に?するあこがれが高まった。その一方、貴族たちは、日本的なものを表現しようという?風が高まり、 ?風文化 の時代となった。その過程で、 ?名 の?達とあいまって和歌は次第に公的な文化として復?するようになった。『 新撰万葉集 』には漢詩と和歌が?べて記され、和歌が公的な文?としての地位を回復してゆく姿が見られる。宮中や貴紳の邸宅で 歌合 が行われ、中でも ?平 5年( 893年 )のころに行なわれた『 ?平御時后宮歌合 』は、のちに最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂において多くその歌が採られた。この頃から、和歌といえば短歌形式のものをさすようになった。
三代集
延喜 5年( 905年 )、 醍?天皇 の勅命によって、 紀貫之 紀友則 凡河?躬恒 壬生忠岑 の4人によって編纂されたのが『古今和歌集』であり『万葉集』に入集しない和歌約1100首を二十?に?める。その歌風は理知的、?念的であるといわれている。それから半世紀のちの 村上天皇 の頃に 和歌所 が置かれ、?時すでに?みにくくなっていた『万葉集』の訓?と『 後撰和歌集 』の撰進が 梨壺の五人 によって行われた。貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向がある。さらに半世紀後の 一?天皇 の頃に『 拾遺和歌集 』が撰進された。典雅で格調正しい『古今和歌集』の?統を受け?ぐものになっている。この『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三つをあわせて 三代集 と呼ぶ。
八代集
平安時代後期には??政治が衰退し始め、貴族文化に?化が訪れた。そのころ撰進されたのが『 後拾遺和歌集 』である。保守的な『後拾遺和歌集』に?し、次の『 金葉和歌集 』は?新な?景歌が中心で革新的なものであったが、?く『 詞花和歌集 』は再び保守的なものになっている。
源平の??の後、 後白河院 の命で 藤原俊成 が『 千載和歌集 』を撰進した。貴族社?の崩?、武士の台頭という混?の中で芸術至上的な傾向を示し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。俊成の弟子が撰進したのが次に述べる『 新古今和歌集 』である。『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの勅撰和歌集をあわせて 八代集 と呼ぶ。

中世

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鎌倉時代 に入ると、政?を奪われた貴族たちは?統文化を心のより所にしたことにより和歌は盛んに詠まれ、歌?が多く開かれた。歌?では和歌に?特の節を付けて詠み上げたがこれを 披講 という。披講には綾小路流や冷泉流などの流派が存在し、現在でも宮中の 歌?始 や神社での行事などで見ることができる。和歌に非常な熱意を示した 後鳥羽院 の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。その採られた和歌は歌合や歌?などにおいて、前もって題を設けて詠まれたものが多い。『千載和歌集』でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達した。その一方で歌聖とされた?本人麻呂や自然への愛や人生?を詠んだ 西行 が尊ばれた。

『新古今和歌集』編纂の中心人物だった 藤原定家 の死後は、その子の?家が 歌壇 の指導者だったが、?家が亡くなると、家系も歌壇も 二?派 京極派 冷泉派 の三派に分かれた。三派は主導?をめぐって?い、うち二?派と京極派は次?と勅撰集を編纂し京都の中央歌壇の覇?を競った。冷泉派は始祖と鎌倉幕府との?係から、?東において武士の間で?えた。

近世

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近世 初期には?統的な歌?が集大成され、多くの歌人が生まれたが、?に「歌道」として完成された芸術になっていたため新しい歌風は生まれなかった。誕生まもない 俳諧 に比べて、上代からの?統的日本文化である和歌の革新は抑制された。近世には??が勃興し、??者たちは古典を直接の典?として歌論提唱と和歌?作を行い、また、古今?授等の歌道家の?を根?のないものとして?しく批判した。契沖の『万葉代匠記』を始めとして万葉集?究が進み、万葉調歌人が現れたのも近世和歌の大きな特?である。なおこの時期、琉球では王族や上流階級の間で和歌が盛んに詠まれている。 17世紀 琉球? が薩摩の支配下に入ると、士族には和歌の素養を身に付けることが求められ、和歌の修?法である序詞や掛詞、本歌取りなどの技法が在?の 琉歌 にも用いられるようになった。 18世紀 になると、 ?? 商人 などごく一部であるが、?外の人?の和歌を嗜む?が、?時の ?筆 に記?されている [注? 2]

近世後期になると京都から新しい和歌の動きが起こり、 堂上 二?派 の流れを酌む 地下 香川家 の末裔が始めた 桂園派 が登場した。桂園派は 明治時代 初期まで歌壇に重きをなした。

近代

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明治時代初期の和歌は堂上系や桂園派や??者など江?期からの?統的な文化人たちが?ってきたが、和歌改革を志す人?( 落合直文 ?謝野?幹 佐佐木信綱 、やや?れて 正岡子規 ら)によって題詠による作歌、風雅な趣向が批判され、新時代に相?しい新しい歌風が生まれた。

言文一致 及び くずし字 が?えられなくなったことにより古典的な和歌の創作は徐?に減少し現在に至る。

修?技法

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脚注

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  1. ^ 『古事記』と『日本書紀』に??されている。
    『古事記』「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」
    『日本書紀』「夜句茂多?伊弩毛夜覇餓岐?磨語昧爾夜覇餓枳都?盧贈?夜覇餓岐廻」(以上原文)
    これにより、のちに和歌のことを「八雲」(やくも)ともまた「八雲の道」ともいった。
  2. ^ ?政 12年( 1800年 )の『桂林漫?』(けいりんまんろく)に、?人詠歌が?首と琉球?王子の?谷(ヨミタニサ)王子と義?(ギノワン)王子の歌が記載されている。義?王子の歌は富士山に?するもので、??筆では安らかなるシラベと評されている。

出典

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  1. ^ a b 乾安代ほか著「日本古典文?史」?印書館、p.33、 ISBN 978-4-87015-515-2

?連書籍

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  • 鈴木健一/鈴木宏子[編]、『和歌史を?ぶ人のために』世界思想社 
  • 谷知子『和歌文?の基礎知識』〈角川選書〉
  • 『和歌を歌う 歌?始と和歌披講』(財)日本文化財?編、笠間書院、 ISBN 4-305-70294-0

?連項目

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外部リンク

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