共戴紀元
(きょうたいきげん、
モンゴル語
:
Олноо ?рг?гдс?н
、
ラテン文字
??:
Olnoo orgogdson
)は、
モンゴル?
の
ボグド?ハ?ン
が?位した
西?
1911年
を元年とする
紀元
である。「共戴」はモンゴル語の原語(万人に推戴された)の
漢?
。なお、?際の用例の中には、定義に?げた原語と異なる語が使用されているものもあり、一定していない。
ウンゲルン支配下及びモンゴル人民政府における使用
編集
1921年
、
ウンゲルン
率いる
白軍
がフレ?を占領し、駐留中?軍を追放して2月15日にボグド?ハ?ン政?を復活させると、共戴紀元は再び使用されるようになった。その後ソビエト
赤軍
の支援を受けた
モンゴル人民?
軍がウンゲルン軍を破ってフレ?を無血占領すると、ボグド?ハ?ン政?から?璽を受け?いだ臨時人民政府は引き?きボグド?ハ?ンを制限君主に推戴し、7月11日に人民政府を樹立、共戴紀元の使用を??した。
1924年
5月20日
ボグド?ハ?ンが死去すると、6月3日から7月8日にかけて開かれた人民?中央委員?全??議は、7月10日をもって共戴紀元を「モンゴル?紀元」(共戴14年をモンゴル?14年とする)に改める決議を行った。これに基づき11月6日招集された第1回イフ?フラル(
人民大?議
)は11月26日、新憲法を公布して君主制?止と
モンゴル人民共和?
成立を宣言、新憲法第1章の規定に上記決議をもりこみ、「モンゴル人民共和?紀元」を制定した。その後も個別の使用は??されたと見られるが、
社?主義
化の進行と共に排除され、西?へと統一された。公式の?止年月日は不明である
[1]
。
- ^
浦野起央編著『資料?系アジア?アフリカ?際?係政治社?史 第2? アジア1r』(パピルス出版、1996年。
ISBN 4938565862
)9章「モンゴル人民共和?の成立」所?の史料中、共戴紀元が使用された最後のものは1925年6月10日?表の「モンゴル政府の中?政府の?議招請に?する回答」(同書10884ペ?ジ)であり、これに次ぐ「モンゴル人民共和?首相
ゲンドゥン
の第七回大フラルダン報告」(1934年12月24日演?、同書10888-10890ペ?ジ)では西?が使用されている。一方、
1941年
?行の紙幣には「モンゴル人民共和?31年」、
1945年
?行の硬貨には「モンゴル人民共和?35年」と明記されており、1940年憲法の制定により憲法上の明文規定が失われた後にも公的に使用されていたことが確認できる(同紙幣は
1966年
まで、硬貨は
1970年
まで流通していた)。
- 磯野富士子『モンゴル革命』中公新書、1974年。
- 浦野起央?
西修
編著『資料?系アジア?アフリカ?際?係政治社?史 第6? 憲法資料アジアI』パピルス出版、1980年。
- モンゴル科?アカデミ??史?究所編著、田中克彦監修、二木博史?今泉博?岡田和行?『モンゴル史』恒文社、1988年。
ISBN 4770406789