伊勢 義盛
(いせ よしもり)は、
平安時代
末期から
鎌倉時代
初期にかけての
武士
で
源義?
の
??
。『
吾妻鏡
』では
能盛
と表記されている。源義??四天王のひとり
[1]
。伊勢三?の名でも知られる。出身は
伊勢
或は
上野?
といわれる。
西福寺の墓所
『
平家物語
』では
伊勢
鈴鹿山
の
山賊
、『
平治物語
』では
上野?
で義?が宿泊した宿の息子としている。『
源平盛衰記
』では伊勢出身で伯母?を殺害して投獄され、赦免されて上野?で義?と出?い「一の??」となったという。義?が
鞍馬山
を出て
平泉
へ向かう途中でその家?となったとされるが、いずれも物語中での話であり?際の出自は不明。
『
愚管抄
』では
粟津の?い
で
木曾義仲
を討ち取ったのは義盛としている(『
吾妻鏡
』『平家物語』では義仲を討ち取ったのは
石田?久
としている)。
『吾妻鏡』によると、
元?
2年(1185年)3月24日
壇ノ浦の?い
で、
平家
の?大?
平宗盛
と息子の
?宗
を捕らえている。4月26日平家の捕虜を京都に護送する際、宗盛らが?る牛車の前に有力
御家人
である
土肥?平
が、後に義盛が付いている。
元?2年(1185年)5月17日 義?の兄である
源?朝
の怒りを買い、鎌倉入りを許されず
腰越
に留まっていた時、義盛は?朝の妹?である
一?能保
の家人と些細なことから???ぎを起こしている。義?と能保が仲裁に入って?まったが、?ぎを聞いた?朝は「義盛のごとき下っ端が驕っているなどけしからん」と憤慨し、いっそう義?の立場を?くした。
文治
元年(1185年)11月3日、義?と?朝が?立し、義?が都を落ちる際にも同行する。九州へ向かう船が暴風雨により難破し一行が離散した後、義盛は??で?伏するが、伊勢?伊賀の
守護
である
山?首藤?俊
を襲?するも敗れて鈴鹿山へ逃亡、文治2年(1186年)7月25日 鎌倉方に?見され斬首、
梟首
された(『
玉葉
』)。
『義?記』においては、平泉で最後を迎えるまで終始義?と運命を共にし、平泉で討ち死にしたとされている。
伊勢義盛の首塚(四日市市川島町)
三重?
四日市市
川島町の
西福寺
境?に墓があり、近くに三?塚がある。
- 『平家物語』の
志度合?
では、16騎で3000騎を率いる
阿波水軍
に向かい、平家の家人
田?左衛門?能
を言葉巧みに欺き降伏させた。義盛は
勝浦
でも
近藤親家
を?柔している。
- 『
義?記
』では終始義?と運命を共にし、平泉で討ち死にしたとされる。
- ^
上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、111頁。
- 上?手雅敬
編著 『源義? 流浪の勇者』 文英堂、2004年。