231年
の第四次
北伐
において、蜀の
諸葛亮
は魏の
司馬懿
と??し局地的には勝利した。しかし、大雨により
李?
が食糧輸送に失敗して食糧が?きたため、撤退せざるをえなくなった。撤退時に魏の
車騎?軍
の
張?
を射殺しているが、初期の目的を果たすことには失敗している。これまで蜀は第一次北伐から連年?万規模の軍を出?させていたが、これ以後は遠征を休止させた。『
晋書
』宣帝紀によると、司馬懿は諸葛亮が常に兵糧不足に?まされていることから、三年間は糧食の蓄積に?念しなければならないだろうと推測している
[1]
。
234年春2月、蜀の
諸葛亮
は魏への遠征を再開し、褒斜道を通って
長安
をめざす構えを見せた。『
晋書
』宣帝紀では、この時動員された蜀軍は十余万とされている。
司馬懿
も諸葛亮を迎え?つために、自ら指揮を執り出?し、人口が集中している
渭水
の南に砦を築き、防備を固めた。『晋書』宣帝紀によると司馬懿は諸?に?し、「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と語っていた
[1]
。一方、
陳?
は『
三?志
』諸葛亮?に、諸葛亮は武功に?り五丈原に布陣したと正反?の見解を記している
[2]
。また『三?志』張翼?によると諸葛亮は武功に出て、
張翼
を先鋒の前軍都督とし、
扶風
太守に任命したとある。『水?注』?『太平御?』にも、共に武功水を渡って蜀軍が東進したことが書かれており、?の
??
に送った手紙の中で、五丈原に?点を置きつつ、武功東10里にある馬?の高地に陣取った魏軍と?峙していることを?えている
[3]
。諸葛亮は渭水の沿岸で兵士に
屯田
を行わせたが、軍規は?正で?地の民は安堵したという。魏の皇帝の
曹叡
は征蜀護軍
秦朗
に2万の兵を?えて、司馬懿の援軍として派遣した。また、曹叡は「砦の防備を固め、守備に徹するべし。敵の食料が?きて撤退した時、追?するのが、遠?の敵を迎え?って勝利を得る方法である」と司馬懿に勅令を下した
[4]
。
諸葛亮は五丈原に軍を進ませると、渭水の北へと兵を進め、北原を押さえようとした。
郭淮
はそれを見破り、先にその地を占めるべきだと主張したが、論者の多くは?成しなかった。郭淮は「もし諸葛亮が、渭水を跨ぎ、高原を登り、兵を北山に連ね、?への道を隔絶し、人民や?民をゆり動かすならば、これは我が?の有利にはなりません」と述べた。司馬懿は、その?に?成し、郭淮は北原に駐屯した。塹壕や?壁がまだ完成しないうちに、蜀軍が?襲したが、郭淮はそれを?退した
[5]
。
攻?が失敗した諸葛亮は、?日後、兵力を西方へと移動した。北原方面の西?に向かわせる姿勢を示し、諸?は皆、諸葛亮の狙いが西?であるとしたが、郭淮だけはこれを陽動とし、陽遂を固めるように進言した
[5]
。しかし、司馬懿も諸葛亮の狙いは西?であると考え、
周?
を陽遂に派遣し、諸葛亮の動きを見たが、諸葛亮は反?せず、郭淮に
胡遵
をつけ、陽遂を守ることを許した一方で、司馬懿は自身の判?を信じ、北原に軍を進めた。果たして、司馬懿が軍を北原に集め、魏軍の?力の分散を確認すると、諸葛亮は陽遂を攻?した。虎?監の
孟琰
が武功水を渡河し、橋頭堡を築き始めた。しかし、武功水が?水し、蜀軍の渡河に?れがでた。司馬懿は陽遂を攻める
孟琰
を確認すると、諸葛亮の陽動に?せられたことに?付き、郭淮らを救援するため、騎兵一万を向かわせて二十日間、孟琰を攻?した。諸葛亮は?岸から射?を行って孟琰を支援しつつ浮橋を作り、孟琰は魏の猛攻を凌いだ?浮き橋が完成し、魏の騎兵は引き退き、?退に成功した。しかし武功水の?水により渡河に時間が掛かり、その間に魏軍は再集結して蜀軍と?峙した
[3]
。
渭水、武功水で行われた?いの後、諸葛亮は五丈原にて司馬懿との持久?を?けることになった。諸葛亮は女の服を送り、司馬懿を女扱いするなど、さまざまな手を使って司馬懿を挑?して魏軍の出陣を誘った。魏の諸?の間には?って出るべきという?運が高まっていたが、皇帝の曹叡から出陣を禁じられていることを理由に司馬懿は挑?に?らなかった。それでも司馬懿が出?許可を求める上奏を行うと、
辛毗
が曹叡の命令を携えて陣を訪問し、出?してはならないと命じた。
習鑿?
の『
漢晋春秋
』および『晋書』宣帝紀では、辛毗が現れたことを聞いた
姜維
は、司馬懿がもはや絶?に出?してこないであろうと諸葛亮に語ったが、これに?し諸葛亮は、司馬懿が出?の姿勢を示して上奏したこと自?、諸?の不?を和らげるための策略に過ぎないと語っている
[1]
。
5月、
?
の皇帝
孫?
が蜀に呼?し、自ら大軍の指揮を執り複?方面から魏への親征を開始した。魏は?土の東西に大規模な?線を抱え?むこととなったが、
合肥
を守備していた
張遼
が堅守して耐え、
?寵
が奇襲攻?で孫?を苦しめ、さらに曹叡自らが救援に赴くと聞くと、孫?は曹叡の
?春
到着を待たずに全軍を撤退させた。
蜀軍と魏軍の?陣は百日余りに及んだが、234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した。諸葛亮は死ぬ前に
費?
、
姜維
、
楊儀
に、五丈原からの撤退に?する指?を?えた。魏延には追?を?たせ、姜維にはその前を行かせ、もし魏延が?わぬ場合は、軍はそのまま出?するように命じた。蜀軍の撤退を知った魏軍は追?しようとしたが、蜀軍は反?の形勢を示し、司馬懿は慌てて軍を退いた。人?はこれを揶揄して諺を作り「
死せる諸葛、生ける仲達を走らす
(死諸葛走生仲達)」と言った。司馬懿は人?にこのことを聞き、「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない(吾能料生、不能料死)」(『
論語
』の「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」に基づいたと見られる)と答えたという。司馬懿は撤退後の諸葛亮の陣?を視察し、「天下の奇才」という感想を漏らした
[6]
[7]
。
撤退直後の蜀軍では、
魏延
が
諸葛亮
の後?を巡って
楊儀
と?い敗死した。だが楊儀もまた
蔣琬
、
費?
に??を掌握され失脚した。蜀の??を掌握した蔣琬も諸葛亮の遺志を?ぎ、魏の討伐を計?していたが、自身の病?と他の重臣たちの反?により計?は?行されなかった。
蜀の侵攻を退けた
司馬懿
は、
238年
には
遼東
の
公孫淵
を討伐し、野?から籠城へと誘い?む巧みな軍略によってこれを滅ぼした(
遼隧の?い
)。東西の外患を除いた大功から、司馬懿は魏の朝廷?で?るぎない地位を確立した。更に皇帝の
曹叡
は
239年
に若くして崩御した。養子の
曹芳
が皇帝となったが幼少であり、司馬懿の?威は帝室の曹氏をも凌駕していくことになる。
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b
c
『晋書 宣帝紀』
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『三?志 蜀書 諸葛亮?』
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b
『水經注 渭水』及び『太平御覽 橋』
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『三?志 魏書 明帝紀』
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b
『三?志 魏書 郭淮?』
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『晋書 宣帝紀』及び『三?志 蜀書 諸葛亮?』
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後に子の
司馬昭
は陳?に諸葛亮の用兵術を?究させ、その一部が
馬隆
らに?承されている