東山天皇
には櫛?賀子が産んだ一宮?二宮??宮(四宮にあたる)と
冷泉?子
が産んだ三宮がいた。一宮?二宮が早世したこと、三宮が天皇の?親である
?元上皇
と
松木宗子
に寵愛されていたことから、三宮が次期皇位?承の有力者とみられていた。しかし、三宮の本?の父は天皇の弟である
京極宮文仁親王
だという?も流れていた(『基熙公記』元?13年3月18日?)。政務の??を巡って?親と確執のあった東山天皇は元?13年(1700年)3月に?宮が誕生すると前?白
近衛基熙
と相談の上、?元上皇の反?を無視して三宮を
円?院
門跡
に入れることにして
江?幕府
の了承を得た。ところが、元?14年(1701年)11月に?宮が早世してしまう。このため、一旦皇位?承問題は白紙に?るかに思われたが、翌月になって?妊中だった櫛?賀子が五宮にあたる男子を生んだのである。男子は長宮と呼ばれ、?宮に代わる次期皇位?承者として大切に育てられていたが、元?16年(1703年)には早くも江?幕府に長宮を次の皇位?承者にすることに?する同意を得ようとしている。
?永
3年(1706年)3月に娘の
熙子
の招待を受けて江?に下向した近衛基熙が娘?である
?川?軍家
世子
?川家宣
と事前に相談したことが幸いして、?永4年(1707年)2月に江?幕府の同意を受けることになった
。
?永4年(1707年)3月22日に長宮が儲宮に定められたことが公式に?表されると、4月29日には
親王宣下
が行われて「慶仁」の御名が定められ、?永5年(
1708年
)2月16日には立太子が行われた。東山天皇は早急に?位を行って自らが院政を行って父の?元上皇の政治的影響力を削ぐ方針であり、10月には
?軍
?川綱吉
に?年には?位する旨を?えた。綱吉は11月になって?年の?位を了承する
老中奉書
を朝廷に送付させるが、?永6年(1709年)1月には綱吉が急死してしまう。そのため、綱吉の養子(?際には甥)である家宣に?する
?軍宣下
と慶仁親王への?位のどちらを優先すべきか、という新たな問題が?生した。武家?奏と京都所司代による公式の朝幕交?と?んで、朝廷側の近衛基熙と幕府側の
間部詮房
の間でも秘密交?が持たれた。幕府は今上(東山天皇)在位中の?軍宣下を希望していたが、同時に家宣が綱吉の喪に服している期間の宣下は問題があるという考え方であった。家宣の義父で故?に詳しい基熙は詮房に?し、
服忌令
の規定はあるものの家宣が養子になった?緯から「御忌五十日」「御服百五十日」が??であり、御忌が過ぎれば?軍宣下に差支えはないという見解を示し、この見解を元に家宣が五十日の御忌を?た後に?軍宣下を受け、その後に?位が行われることになった。その後?連儀式との兼ね合いから、東山天皇から?川家宣への?軍宣下は5月1日に、東山天皇から慶仁親王への?位は1か月余り後の6月21日に?施されることになった
。
?永6年(1709年)6月、東山天皇から?位されて?位。9?で
?位
したため、はじめ父の東山上皇が
院政
を行うが、同年12月に上皇が、同月に母の櫛?賀子も崩御している。このため、祖父の
?元上皇
が復?して院政を行った。また、母方の祖父の
櫛?隆賀
夫妻が15?になるまで御所?に部屋に?えられて養育に??した。このため、成人後も天皇の信任が厚い櫛?夫妻の政治的影響力が後?まで?く?され、
外戚
の天皇に?する影響力をいかに抑制していくかが後?の政治的課題となった
[3]
。
在位期間は、第6代
?軍
家宣
から第8代の
吉宗
にかけての時代に相?する。この時代の
幕府
との?係は比較的良好で、弟にあたる
直仁親王
が
閑院宮家
を創設し、さらに?元上皇の皇女
八十宮吉子?親王
を
?川幕府
7代?軍
家?
の元へ
降嫁
させる話も出ていた。しかし、家?の急死で沙汰止みになっている。
享保14年(
1729年
)には?軍吉宗自ら注文した交趾(
ベトナム
)
?南
産の
象
の「?謁」を?元上皇とともに受けている。この際、象が無位無官であるため??の資格がないとの問題が起こり、急遽「
?南?四位白象
」との??を?えて??させたと
江?名所??
に記載されているが、
烏丸光?
の『光?卿日記』や三?西公福の『日記』など
18世紀
の史料ではいっさい言及されず、『江?名所??』も象の?日より100年?った記述であり、?位については疑問視する意見もある
[4]
。
?謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、
時しあれは 人の?なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ
と感銘を
和歌
に表している。
享保20年(
1735年
)3月、
?町天皇
に?位し(在位27年)、元文2年(
1737年
)5月10日に36?で
崩御
した。
天皇は
朝廷
の古儀に?心を深めて?究を進め、『公事部類』の撰著を?した。また、
笛
や和歌?
書道
に秀で、特に笛は
キツネ
が?きに?るほどの腕前であったとの逸話が?っている。
ちなみに、天皇の側近であった
?橋兼胤
の
日記
によれば、天皇は
十二支
の
巳
に?があり、生年が巳年というだけでなく、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻であったという。
中御門天皇の皇統は玄孫にあたる
欣子?親王
(曾孫にあたる後桃園天皇の唯一の子女)が、傍系(弟の
閑院宮直仁親王
の孫)にあたる光格天皇の中宮となって、
?仁親王
と
?仁親王
(何も中御門天皇の?孫)を産んだことにより、欣子?親王を介して女系の血も受け?ぐものと思われていたが、2親王とも嗣子なく、
?政
12年(
1800年
)と
文政
4年(
1821年
)にそれぞれ薨去したことにより途絶えてしまう(欣子?親王は二度と子を産むことなく、
弘化
3年(
1846年
)に
崩御
)。現在の
皇室
まで?く皇統は、光格天皇の典侍である
?修寺?子
が産んだ仁孝天皇(?仁親王の異母弟かつ?仁親王の異母兄)が?いだ。
陵
(みささぎ)は、
宮??
により
京都府
京都市
東山?
今熊野泉山町の
泉涌寺
?にある
月輪陵
(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮??上の形式は石造九重塔。
また
皇居
では、
皇?殿
(
宮中三殿
の1つ)において他の?代天皇?皇族とともに天皇の?が祀られている。
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?考文?
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外部リンク
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2024年4月
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