ユ?ゴスラビア社?主義連邦共和?の憲法では、「
narodi
」(?家の主要民族で、憲法に明記され、特別の保護を受けられる)と「
narodnosti
」(少?民族)が規定されていた。
ユ?ゴスラビアでは、
オ?ストリア=ハンガリ?帝?
とは異なり、ボシュニャク人という呼?は認められていなかった。
1960年代
における議論のなかで、多くのボシュニャク人の共産主義知識人は、ボスニア?ヘルツェゴビナのイスラム?徒はひとつのスラヴ系の民族として認識されるべきであると指摘してきた。しかしながら、ボシュニャクの名?は否定されてきた。ボシュニャク人政治家で大統領の
ハムディヤ?ポズデラツ
(
英語版
)
(Hamdija Pozderac)は次のように?言している。
彼らは我?のボスニア人としての性質を否定したが、イスラム?徒としての性質を提唱してきた。その名?は誤りではあるものの、我?はこれを受け入れるだろう。そして、これを新しいプロセスの始まりとしていこう。
(
1971年
、後にボシュニャク人となる「ムスリム人」の民族認定による憲法改正のための、
ヨシップ?ブロズ?ティト?
との?談に?して。)
この合意によって、憲法は
1968年
に改正され、ボシュニャク人という名?ではなく「ムスリム人」という名?で新たに民族として認められた。ユ?ゴスラビアのムスリム人政策は、ボシュニャク人を地域的な民族ではなく宗?による?分とすることを目的とし、彼らに?してそのボスニア性を無視し認めないものであった
[1]
。
ムスリム人を指して「頭文字が大文字のムスリム」とも呼ぶこともあった。頭文字が小文字の
ムスリム
(ムスリマン)とはイスラム?徒を表す一般名詞であるのに?して、「頭文字が大文字のムスリム」は特定の民族を表す呼?であるためである。こうした呼び方は、
セルビア?クロアチア語
の話者は時として他民族をその頭文字で呼ぶことがあったことによる。
1990年代
の
ユ?ゴスラビア崩?
以降、200万人程度を?えるムスリム人の多くはボスニア?ヘルツェゴビナ、あるいは
サンジャク
地域に住み、自身を「ボシュニャク人」と規定している
[2]
(複?形は「
Bo?njaci
」、??形は「
Bo?njak
」)。他方で、特にボスニア?ヘルツェゴビナ?外において、現在でも自身を「ムスリム人」と規定している人?もいる。ボスニア?ヘルツェゴビナの選?法ならびに憲法では、
1991年
の統計調査以降「ボシュニャク人」の呼?を使用している。
- セルビア
において、
2002年
の統計調査によると、中央セルビアと
ヴォイヴォディナ
には19,503人の「ムスリム人」、136,087人の「ボシュニャク人」がいる。
[3]
。
- モンテネグロ
において、
2003年
の統計調査によると、人口の3.97%を占める24,625人が自身を「ムスリム人」とし、7.77%を占める48,184人が「ボシュニャク人」と規定した
- マケドニア共和?
においては、
2002年
の統計調査によると、17,018人の「ボシュニャク人」がおり、「ムスリム人」は極少?に留まった
[4]
。ただし、
1990年
以前の調査では
トルベシュ人
や
ポマク
も「ムスリム人」として回答していた。
- クロアチア
における南スラヴ?イスラム?徒のコミュニティにはおよそ5万人が?しており、3つの異なる民族規定に分けられる。このうちおよそ1万人は「クロアチア人」、2万人は「ムスリム人」、その他の2万人は「ボシュニャク人」としている。
- スロベニア
における
2002年
の統計調査では、21,542人が「ボシュニャク人」、8,062人が「ボスニア人」、10,467人が「ムスリム人」とした
[5]
。
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