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(
2021年8月
)
|
治承??永の?
(じしょう?じゅえいのらん)は、
平安時代
末期の
治承
4年(
1180年
)から
元?
2年(
1185年
)にかけての6年間にわたる??各地の??であり、
平?盛
を中心とする
伊勢平氏正盛流
に?する反?である。反平家勢力の中には祖を同じとする坂東平氏も含まれており遠戚間の?立、嫉妬に契機を?した抗?でもある。
日宋貿易
で得られた富を中央政府側で?占し、その財と?力で?華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不?を募らせたことで反?を招いた。このことから、平家の繁?と?落を描いた?述書、
平家物語
冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、?力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている
[1]
。
後白河法皇
の皇子
以仁王
の?兵を契機に起こり、反?勢力同士の?立がありつつも、最終的には平氏政?は打倒された。
源?朝
を中心とした主に
坂東平氏
から構成される武士集?が平氏政?勢力打倒の中心的役割をつとめ、新たな武力政?である?東政?(
鎌倉幕府
)の樹立に至った。
一般的には、「
源平合?
」(げんぺいかっせん)、「
源平??
」(げんぺいそうらん)、「
源平の?い
」(げんぺいのたたかい)などの呼?が用いられることがあるが、こうした呼?を用いることは適?でないとする議論がある(詳しくは
後述
)。
また、
?州合?
終結までを治承?永の?に含めるという見解もある
[2]
。
平治の?
(1159年)は平氏政?進出へのきっかけになった
平安時代末期、朝廷?貴族?部の?力??が、
保元の?
?
平治の?
といった軍事衝突に?展するようになった。こうした??で大きな?きをした平?盛は、?立を深める後白河上皇と
二?天皇
の間をうまく渡り?き、さらに?政
近衛基?
と姻戚?係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。?盛の地位向上に伴い、平家一門の官位も上昇、
知行?
を次第に?やしていった。
二?天皇が崩御すると
六?天皇
が?位するが、後に
高倉天皇
が?位する。この間、?盛は後白河上皇と政治的に接近して更に?達を遂げ、
仁安
2年(
1167年
)には
太政大臣
に就任。朝廷?における?言?を?すこととなる。
後白河法皇と?盛の政治提携は?いていたが、この二者を橋渡ししていた
建春門院
(?盛の義妹)が
安元
2年(
1176年
)に亡くなると、?者の間に齟齬が生じていくようになる。そして安元3年(
1177年
)北陸の?衙と
比叡山
の末社の?立をきっかけに比叡山と院近臣が?立し、院近臣を守る立場にある後白河法皇は?盛に比叡山攻?を指示したが、?盛はこれを拒否、逆に比叡山側の要求を通し院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。これによって後白河法皇は比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となる(
鹿ケ谷の陰謀
)。
一方、その頃から高倉天皇が政治的?言?を?めるようになっていく
。治承2年(
1178年
)、高倉天皇の元に入?させていた?盛の娘?
?子
が皇子を出産。後?者となる皇子の誕生で、高倉天皇が退位して院政を敷く?件が生まれる。
しかし治承3年(
1179年
)、?盛の息子
平重盛
と娘の
平盛子
(近衛基?の妻)が相次いで死去。この二者の遺領や知行?を巡って?時の?政
松殿基房
や後白河法皇と?盛の間に?立が起きるようになった。
治承3年(
1179年
)11月、?盛の反?により後白河法皇の院政は停止される。また、この反?によって?政基房は解任され、代わりに?盛の娘?の
近衛基通
が?政に就任する。また、院近臣の多くが解官された。翌治承4年(
1180年
)2月、高倉天皇は言仁親王(
安?天皇
)に?位、高倉院政が開始される。3月、高倉上皇は?盛の?い要請により
?島神社
への?詣を計?するが、先例を無視するものとして畿?の
寺社勢力
は猛然と反?する
。
また、この政?で平家の知行?は17か?から32か?に急?するが、このことは全?各地において?衙?力を巡る在地勢力の混?を招いた。東?においてはそれまでの?知行?主のもと?衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行?主となった平家と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、?衙?力を巡る在地の勢力?いは一???という?況となった
。
『源平合???風』(寸法153×61.6) 安?天皇が船で屋島へ向かう場面。那須?一の扇の的と、源義?の弓流しが描かれている。
治承4年(1180年)、安?天皇の?位により皇位?承が絶望となった
以仁王
が、
源?政
の協力を受け、平家追討?安?天皇の?位?新政?の樹立を計?した令旨を?した。その令旨は
源行家
により、全?各地の源氏や
八?院
の支配下にある武士達に?えられた。しかし?兵直前に紀伊熊野の平家方(?別?
湛?
を中心とした本宮勢力)と反平家方(
行快
を中心とした新宮?那智勢力)との熊野新宮合?があり、その後、?別?湛?からの平氏への注進により平家追討の企てが??した
[注? 1]
。以仁王らは、
平知盛
?
平重衡
率いる平家の大軍の攻?を受け、同年5月、宇治の
平等院
で?死するが、この?兵が6年間に及ぶ??の契機となった。
以仁王敗死の頃、令旨が各地の武士に配られていた。
源?朝
はそのうちの1人で、相模?伊豆?武?の武士?への呼びかけを始めた。?朝は8月17日に?兵、伊豆?目代の
山木兼隆
を襲?して殺害する。その直後、
相模?
石橋山にて
大庭景親
らと交?するが?朝軍は?敗し追い詰められた(
石橋山の?い
)。その直後に平氏方は甲斐?境付近で甲斐源氏の
安田義定
らと軍事衝突する(
波志田山合?
)。
?朝は、9月、海路で
安房?
へ逃れた後、その地で
三浦氏
勢力とも合流した後に再?した。
?朝の軍勢は房?半島?を北上し、安房の
在?官人
をはじめ房?半島の
上??常
、
千葉常胤
らの諸豪族を次第に傘下に加え急速に大勢力となっていく。9月末には
下??
葛飾郡
へ陣を進めた(
鷺沼
、
下??府
、
隅田川
東岸)。
彼らの大部分は
坂東平氏
(
桓武平氏
の流れを汲み坂東一?に勢力を持つ武士?在地領主)だった。?時、坂東の在地豪族間の?いは激しく、また親平氏勢力(加えて新たに知行?主となった平氏が支配する?衙)による他勢力への?迫が進みつつあった。千葉氏、上?氏などはこの?兵を自勢力回復の好機と捉えた(?朝の房?進出と前後して、千葉氏と平氏系の目代との?いである
結城浜の?い
が起きている)。また、都から遠く離れた地にあっては豪族達は自力で所領を守るしかなく、その不安定な?態から?け出し所領を安堵してくれる者を求めたいという?在的な要求もあった。
?朝は、軍勢を
下??
から
武??
へ進めるに?たり、去就を迷っていた
武??
有力武士へ速やかに?陣するよう命じた。なお
武??
有力武士は?兵時の?初は少なからず平氏側に立って?った(
衣笠城合?
)。
10月2日、軍勢は
太日川
から
隅田川
の渡河を開始した。武?の
足立遠元
、
豊島?元
、
葛西?重
が?陣した。
翌日に?朝は
下??
から
武??
へ入り、さらに
?山重忠
、
河越重?
、
江?重長
も?陣し、
武??
?
相模?
も?朝の勢力下となった。
10月6日、?朝の軍勢は先祖のゆかりの地である
相模?
鎌倉
へ入って本?地とする。これにより?東政?(後の鎌倉幕府)が樹立される。また、この時までに?東政?は坂東南部の?質的な支配?を獲得している。
同時期に
甲斐
の
武田信義
を棟梁とする
甲斐源氏
の一族や、
信濃
の
木曾義仲
も相次いで?兵している。
東?での?況を受けて平氏政?は
平維盛
、
平忠度
らが率いる追討軍を派遣した。追討軍は東海道を下り、10月18日、
駿河?
富士川
で反?軍と?峙する
[注? 2]
。大軍を見て平氏軍からは?落者が相次ぎ、目立った交?もないまま平氏軍は敗走することとなった(
富士川の?い
)。これにより駿河?遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。一方?朝はこの機を捉えて上洛を?討するが、坂東??を優先すべきという上?氏らの意見を受け入れ、まずは上?氏千葉氏の利害の?立者である佐竹氏と交?する(
金砂城の?い
)。その後鎌倉に?還した?朝は
侍所
を新設し、
和田義盛
を別?、後に
梶原景時
を所司に任じる。
東?以外でも反平氏勢力の動向は活?となっていった。
土佐
の
源希義
をはじめ、
河?源氏
のかつての本?地だった
河?
石川の
源義基
?
義兼
父子、
美濃
の
土岐氏
、
近江
の
佐?木氏
、
山本義?
、
熊野
の
湛?
、
伊予
の
河野氏
、
肥後
の
菊地隆直
らのほか、
若?
?
越前
?
加賀
の在?官人など、多くの勢力による?兵があった。
畿?
においても寺社勢力を中心に反平氏勢力の動きが活?化していた。それに?抗するため?盛は遷都していた
福原
から平安京に都を?し、軍事制?に?り出す。まずは近江の反平氏勢力を制?し(
近江攻防
)、ついで治承4年(1180年)12月、
平重衡
は畿?最大の反平氏勢力?
興福寺
を?き討ちにする(
南都?討
)。治承5年(
1181年
)正月には、
紀伊
の
熊野三山
勢力が?兵して、
伊勢
や
志摩
で平氏側勢力と交?するという動きもあった。
治承5年(1181年)初頭には美濃源氏を?破し(
美濃源氏の?兵
)平氏は畿?制?に成功する。
一連の軍事行動の中で?盛は平宗盛を?官に任じてもらうなど反?勢力に?抗する?制を整えていく。
そうした中で院政をとっていた高倉上皇が崩御したため、平氏は停止していた後白河院政の復活を余儀なくされる。さらに閏2月に、?盛が熱病で?して平氏政?は?力な指導者を失った。直後の3月、平氏は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨?川で源行家と??して勝利を?める(
墨?川の?い
)。
この勝利の後平氏は東?への進軍を中止し、?州藤原氏、越後城氏と提携して東?反?勢力にあたる方針をとろうとした。
?時の坂東の武士にとって、最優先事項であったのは在地における各?の?益の確保と?大にあった
。?朝は、自らの御家人の?利を確保することが求められており、さらには競合勢力とのせめぎあいを常に抱えていた。?際に?朝は、
志田義?
、
新田義重
、
佐竹氏
や
足利忠綱
といった周?の敵?勢力を排除?屈服させることに非常に?力している。治承4年(1180年)11月には
金砂城の?い
、翌年(?際は?永2年とも)の
足利俊綱
との?い、?永2年(1183年)2月の
野木宮合?
、さらに同年3月頃には信濃?近?で木曾義仲と大軍を率いてにらみ合ったのち和平を結ぶなど、この頃の?朝は坂東における自らの勢力基盤の確保と?大に力を注がざるを得ない?況であった。また背後に?州藤原氏や金砂城合?後も常陸に勢力を?す佐竹氏の脅威を抱えていた。そのような中で御家人に?して本領安堵、新恩給付といった所領の保?を行い主??係を?固にすると共に?朝は自らが有する都との人脈を通じて朝廷との接?や交?を行って徐?に坂東における優位を獲得していく
。
一方治承5年(1181年)6月、木曾義仲は
?田河原の?い
で
城助職
を破り、信濃から
越後
を席?した。一時は
上野
まで進んだがその後北陸方面へ?進し、後に越前若?などで?兵した北陸の在地勢力と結ぶこととなる。その後、義仲を?って?た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸における優位を確立する。
この時期の東日本は?州は?州藤原氏の勢力下にあり、南坂東は源?朝、越後と北坂東信濃の一部は源義仲、甲斐駿河遠江と信濃の一部を甲斐源氏が割?するという?況になった。
治承5年(1181年)都では「
養和
」と改元されたが、?朝ら反平氏勢力はこれを認めずに「治承」の元?を用いた。この年から翌年にかけて
養和の飢饉
という大飢饉が起きたことに加え、平氏政?は安?天皇の
大嘗祭
の?施(11月24日)を優先していた。一方『
玉葉
』養和元年(1181年)8月1日?には、後白河法皇に?朝から密使が送られ、平氏との和平を提案したことが記されている。
畿?を制?した平氏は北陸や?西方面の反???に?り出し、養和元年(1181年)8月に平通盛?
?正
を?とする軍を北陸に派遣した。しかし、通盛と?正の連携が上手くいかない上に兵糧不足に?まされ、反?を??することができずに北陸から撤?する。一方で?西の反?勢力に?しては
平貞能
を派遣し、一年かけてその反?勢力を降伏させることに成功している。
飢饉が小康?態となった?永2年(
1183年
)4月、平氏は北陸の反?勢力を討つために
[注? 3]
、
平維盛
?
平通盛
率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前?加賀の反?勢力を?破するが、5月に加賀?越中?境の
?利伽羅峠
で義仲軍に敗北する(
?利伽羅峠の?い
)。
7月には義仲軍は
延?寺
まで到達した。
多田行綱
は?津?河?を占?して平氏の補給路を遮?、
遠江
の
安田義定
も東海道を進?して京都に迫った。京都の防衛を?念した
平宗盛
は、
安?天皇
や
三種の神器
を保持しながら都落ちして西?に逃れていく。この時、後白河法皇は比叡山に?出して都落ちに同行しなかったため、安?天皇奉じる平氏の正統性は弱まることになった。義仲軍は上洛を果たすが、期待された都の治安維持はうまく機能せず、しかも前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して、市中で略奪や狼藉が?行する。
また、天皇不在となってしまった都では安?天皇に代わる天皇が必要となっていた。義仲はそれまでみずからが奉じてきた
北陸宮
の?位を?硬に主張し、高倉上皇の皇子のうちの誰かを?位させる存念であった後白河法皇や公卿達の反感を買った。このようなことから義仲の評判は落ちて、?朝の上洛を願う?が高まっていく。結局、義仲の北陸宮擁立は失敗し、高倉上皇の第四皇子の尊成親王(
後鳥羽天皇
)が位についた。このことにより同時に二人の天皇が存在するという異常?態が?生した。同年9月、後白河法皇の命により義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立したが、閏10月に備中水島で
平重衡
率いる平氏軍に大敗する(
水島の?い
)。
義仲が出陣して不在の間に後白河法皇は?朝に使者を送った。?朝は法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ
東海道
?
東山道
?
北陸道
の
?衙領
?
?園
をもとのように、
?司
?
本所
へ返還させる?容の
宣旨
?布を要請する。その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の?容を認める
?永二年十月宣旨
を?朝へ?して東海道?東山道の?園??衙領を元の通り
領家
に?わせる?限(沙汰?)が?朝に認められた。また平治の?以降流刑者という身分であった?朝は、以前?びていた?五位下の位階に復して流刑者の身分から?する。?朝は、?に?質的に東?を支配していたが、この宣旨?給は、?朝が東?支配?を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。また、今まで反?軍とみなされていた?朝とその支持者たちの軍勢は反?者とはみなされなくなった。
?朝は、
?永二年十月宣旨
に基づく東?の年貢の納入を?行すると?して
源義?
らを上洛させた。この情報を聞いた義仲は平氏との?いを切り上げて、閏10月15日に?京する。義?軍は11月初めには近江まで到達し、味方の離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日、法住寺殿を襲?して後白河法皇を幽閉し、
松殿師家
を?政とする傀儡政?を樹立する(
法住寺合?
)。義仲は法皇に迫って源?朝追討の院?下文を?給させ、翌?永3年(
1184年
)正月には
征東大?軍
となり
[注? 4]
、形式的には官軍の?裁を整えた。
このような情勢下、?朝は弟の
源範?
を新たに援軍として派遣し、正月20日、範?軍と義?軍は、それぞれ勢多と田原から?攻?を開始する。義?軍は義仲軍と交?して宇治の防衛線を突破し(
宇治川の?い
)、そのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で?死した。
『一の谷合???風』舟へ?ろうとする
平敦盛
を呼び止める
熊谷直?
義仲滅亡に至るまでの間に平氏は勢力を立て直し、?永3年(1184年)正月には?津福原まで?っていた。その頃、都では後鳥羽天皇の?位を控え、三種の神器不在を憂慮されるようになっていた。三種の神器は安?天皇の元にあり、三種の神器を後鳥羽天皇側に迎え入れる?に平氏と和平するか、交?して?力で奪取するか朝廷?の意見は割れたが、武力攻?による三種の神器奪還へと意見が固まる。やがて京都に駐留していた範??義?軍は、福原に陣を構える平氏を攻?することになった。範??義?軍は二手に分かれて平氏を急襲し、海上へと敗走させた(
一ノ谷の?い
)。この?いで平氏は多くの有能な武?を失い、後の?いに大きな影響を及ぼした。
一ノ谷の?いの後、?朝は義?を?指揮者として畿?西?の軍事?制を整える。
土肥?平
?
梶原景時
が山陽道に、
大?惟義
?
大井?春
らが伊勢?伊賀に配備されるが、?平?景時は平氏軍の反攻に苦しみ、?朝は義?を?大?として西?に遠征軍を送ることを?討した。だが、その矢先の
元?
元年(
1184年
)7月、
平田家?
?
藤原忠?
ら伊勢?伊賀の平氏家人が軍事蜂起する。激?の末に反?は??されるが
佐?木秀義
が討死するなど鎌倉方御家人にも大きな被害が及んだ。この?の影響で義?は畿?の治安維持に?念せざるを得なくなり、代わりに範?が西?遠征の指揮を執ることになる。
一方、東?では?朝によって甲斐源氏の
一?忠?
が殺害され、甲斐?信濃に?して軍事力が行使された。これは?朝と同格で元??自に?兵した甲斐源氏を?朝の支配下に置こうとする政策である。またこの頃から、?朝に?して?立性の高い京武者(畿?周?の軍事貴族)に統制をかけようという試みもなされている
[注? 5]
。
一ノ谷の?いで敗れた平氏は?岐屋島に陣を構えて?裏を置いた。8月、西?へ向かった範?軍は?初は順調に
山陽道
を制?したが、やがて長く延びた?線を平氏の水軍によって分?された。また、
?門海?
も
平知盛
によって封鎖されて
兵糧
不足に?り進軍は停?した。この?況をみた義?は元?2年(
1185年
)正月、後白河法皇に西?への出陣を奏上してその許可を得る
[注? 6]
。同年2月、義?は阿波
勝浦
へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落とした(
屋島の?い
)。
壇ノ浦の?い
屋島の?いの後、???海の制海?を失った平氏軍は
長門
へ撤退する。
熊野別?
湛?
が率いる
熊野水軍
や、
河野通信
らの
伊予水軍
を始めとする中??四?の武士が??と義?軍に加わり、時を同じくして範?軍が九州を制?したことで、平氏は完全に包?される形となった。
元?2年(1185年)3月24日、?門海?の壇ノ浦で最後の?いが行われた(
壇ノ浦の?い
)。序盤は平氏が優勢であったが、範?によって補給路を?たれた平氏軍はやがて劣勢となっていく。さらに味方であったはずの阿波水軍の裏切りもあり敗色が濃厚となるに?って、平氏の武?は海へ身を投じていき、
安?天皇
と
二位尼
も
三種の神器
とともに入水した
[注? 7]
。この?いで平氏は滅亡した。
日本において、この?以前にも大規模な??は?生しているが、それらの反?は大規模であっても?境地域に留まる性格のものか中央地域(畿?周?)における短期間の??に限定されていた。だが、この?は中立的な立場を取った?州藤原氏が支配する東北地方以外の?時の日本の?土のほぼ全域を?き?んでおり、かつ5年近くにわたって?くものとなった。ところが、?時の朝廷の軍制はあくまでも京都およびその周?の短期間の?擾(僧兵や?賊など)や海賊?策には十分であったものの、こうした大規模な??に??できる?制にはなっていなかった。平氏政?にしてもその成立のきっかけとなった保元?平治の?において重代相?の家人などからなる少?の直?部隊で勝利を?め、政?掌握後は必要に?じて公?力の?動を行うことによって諸?の兵士を動員することで補う形態を採っていた。ところが、この?において?初小規模勢力でかつ「反?軍」の扱いを受けていた源?朝勢力は、?東地方の支配?確保とその後の平氏政?打倒という長期的?領域的な目標を達成するため、傘下の武士に?して?自の本領安堵や占領した土地の給付などを?施し、これを?子にして長期?に耐え得る軍制の確立に成功した
[注? 8]
。これに?して平氏政?側は朝廷?の?勢力(王家、貴族、寺社)との兼ね合いからこうした大?な措置を採ることが困難であり、それが平氏政?側の苦?につながったと考えられている
[9]
。
それまでの合?は?者を?えた正規の武士が名?りを上げ
騎射
から始めるなど、一定の作法がある?いであったが、この?では??の大規模化により正規の武士と?者だけでは人員が不足し、動員?象が騎射に習熟していない未熟な武士や、本?は非武士階級である村落領主クラスにまで?大したとされる
[10]
。また馬術や弓術に不慣れな者が多く?加したことから、これまでの合?ではル?ル違反とされていた、相手の馬への攻?や馬による??たりが行われるようになり、本?は矢が無くなったり馬を下りた際に使う
太刀
の馬上使用も?加した
[11]
。これ以降、
弓騎兵
だった武者は太刀を使う打物騎兵に?化していった
[12]
。
?の以前、平氏政?は軍事?警察?を握り、多くの知行?を保有していた。このために、平氏政?に?益を奪われた?勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政?の排除が企?された。最終的にはそれが成功したのだが、?勢力は平氏政?が保有していた?益をすべて奪還することはできなかった。
?勢力に平氏政?を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。?初、東?や北陸で勃興した反平氏勢力は平氏追討を建前として?げてはいたが、本音では自らの?利の確保、そして中央政府からの一定範?での?立を?の目的としていた。?勢力は平氏打倒という目的のためには?際に追討に携わる?東政?に依存しなければならず、?永二年十月宣旨の?給といった大幅な?限委?の道を開いてしまう。
その結果として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は東?の支配?を有するのみだったが、それは?時の幕府を構成する武士たちにとって十分?足できる結果だったはずである。
創成期の鎌倉幕府と?存の朝廷は多くの軋轢を抱えながらも
?園公領制
の維持という点では利害が一致しており、建久元年(1190年)の?朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調?制が確認された。鎌倉幕府と朝廷が全面衝突するのは、それから約30年後の
承久の?
である。
1183年時点の勢力??。ただしこのように明確に分かれていた?では無く、源氏同士、平氏同士でも相克や??があった。
治承??永の?は、
源平合?
(または「源平の?い」)と呼ばれることも多い。この??が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、平家政?から?朝政?(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から?盛?宗盛ら平氏一門と?朝?義??義仲ら源氏一門の?いと受け取られてきたことなどが、この呼?を生んだといえる。
しかし、平家政?に反旗を?した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、?純に源氏と平家の?いとは言えない。この?には熊野勢力や興福寺、園城寺などの寺社勢力が反平氏を?げて蜂起し、??前期においては北陸の在地豪族(義仲とは別個に?兵
)や九州の在地豪族など源平という氏族に無?の勢力も?多く蜂起している。また、この??は、一族や家族、地域の共同?という?の絆と、主君と家臣という?の絆の相克があり、命を懸けて?った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に?斂されるわけでもない。
また、源氏や平氏は皇族から分岐した家系であり、?然ながら非武士の貴族層にも多?の源氏?平氏がおり、?時の
源氏長者
(いわゆる源氏の一族のトップ)も非武士の貴族である(武士が源氏長者になるのは、後世の
足利義?
からである)。非武士の源氏?平氏が、それぞれ武士の源氏?平氏に直接的?間接的に加??援助したという記?は一切存在しないし、??する動機が存在しない。
つまり、源平合?の呼?で想起されるような、源氏と平氏がそれぞれの一族を糾合して?った?ではないのである。確かに、武田信義や足利義兼、木曾義仲など、反平氏の掛け?のもとに?兵をした源氏一族は多い。しかし、源氏一族に?していても、平氏に?(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。このことは
平治の?
において、
?津源氏
の
源?政
が
河?源氏
の
源義朝
とは完全に別行動を取っていることからもうかがえる。
野木宮合?
や?朝と義仲の?い、義仲と行家の?いなど源氏?部での?いもこの一連の??に含まれる。同時に蜂起した諸源氏であったがそれらが全て最初から源?朝の指揮下にいたとは限らないのである。更に源義朝??朝父子が源氏嫡流であったというのは鎌倉幕府の成立と言う結果論から成立したものであり、?際の河?源氏は複?の流れに分かれて??の嫡流が存在する?態ではなく、河?源氏を代表する武者であった
源義家
の後?に限定したとしても、大?合?や保元の?で父や弟を討ってその地位を得た源義朝の後?者である?朝だけではなく、大?合?で討たれた源義賢の後?者である義仲や、義朝?義賢の弟である行家もその地位を主張できる存在であった
[13]
。
源氏同士、平氏同士が?う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武?も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて?った者もいる。一族相克の物語は
??時代
に多いが、この時代に?に始まっている。武士は?生?初から血?的要素よりも地?的要素の?い集?であったが、この?は日本を一層の地?社?へと導くことになった。
北?時政
、
土肥?平
、
熊谷直?
、
?山重忠
、
梶原景時
、
三浦義澄
、
千葉常胤
、
上??常
など、
坂東八平氏
を中核に多?。
新田義重
、
佐竹秀義
、
源季貞
など。
- 年月日は出典が用いる?であり、?時は宣明?が用いられている
- 西?は元日を宣明?に?更している
- ^
注進者に?しては異?もある。
- ^
反?軍の主力は駿河を制?した甲斐源氏であり、?朝は
??川
に駐留して形勢を?望していたという?が有力になりつつある
。
- ^
『吾妻鏡』には義仲を討つためと記載されているが、『玉葉』記載の追討宣旨には追討?象者が源?朝、源信義となっており、源義仲は追討?象者にはなっていない。この時点では義仲はまだ無名の存在であり、この出兵は北陸各地で?生した各反?勢力の追討とみなすべきとの??が有力になっている
。
- ^
後世の編纂史料『吾妻鏡』『百?抄』では征夷大?軍だが、同時代史料の『玉葉』『山槐記』(『三槐荒??書要』所?)では征東大?軍と記されている
[7]
。
- ^
三日平氏の?の背景として、?朝による武家支配一元政策に?する反?があったとする?もある
。
- ^
『吾妻鏡』元?2年(1185年)正月6日?には、範?に宛てた同日付の?朝書?が記載されている。その?容は性急な攻?を控え、天皇?神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義?が出陣したのは?朝書?が作成された4日後であり(『吉記』『百?抄』同日?)、屋島攻?による早期決着も?朝書?に記された長期?構想と明らかに矛盾する。
吉田?房
が「??(土肥?平?梶原景時)が追討に向かっても成果が?がらず、範?を投入しても情勢が?わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義?を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻?は義?の「自?」であり、平氏の反?を恐れた院周?が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義?は自らを「一院の御使」と名?り、
伊勢義盛
も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、?朝の命令で義?が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された?構であるとする見解もある
[8]
。
- ^
三種の神器のうち?以外は無事に確保された。
- ^
?朝が占領して武士に給付した土地の中には?勢力側の?園なども含まれており、その後?朝と朝廷との間で問題となった。だが、「?永二年十月宣旨」や翌年3月7日の後白河法皇の院宣によって?朝勢力?と認めた地域については武士たちを在地領主として認めることで?勢力側が?み寄ることになった。
- ^
“
「驕れる者久しからず(おごれるものひさしからず)」の意味や使い方 わかりやすく解? Weblio?書
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