わたしの?????
第20章
?史に?らぬ出?事
(北朝鮮?出)
第19章に?き、 「私達の北朝鮮物語」 を紹介します。
北朝鮮の首都ピョンヤンで迎えた終?
私達 の 北 朝 鮮
物 語
やがて北朝鮮にも凄?な冬?軍が訪れます。
夏の盛り?州から着の身着のままで
避難してきた人?にとってはまさに地獄の季節でした。
?足な食料の配給もなく、バラック小屋などに詰み?まれて、
朝になると冷たく凍った死?と化していく人?。
零下20度をこえる寒?の中で、?養失調と?疹チフスで死んでいった遺?は
カチカチに凍り、菰包みにして船橋里日本人?の倉庫に積み重ねられていました。
私達は日本人?の要請により、これらの遺?を大八車に山と積んで、
?日、平壤東北?キロ離れた山の中に埋葬に行きました。
そして?疹チフスで亡くなられた遺?は?却場に運びました。
遺?を運んで埋葬した山には、冬期は土が凍って埋葬しにくいため、
あらかじめ日本人?の手により、暖かい季節に塹壕のような長い
??の墓穴が掘られていました。 しかし墓穴はすぐに一杯になり、
私達はツルハシで凍土を削って1日かかって穴らしいものを掘ります。
そして山麓からバケツリレ?の要領で山の中腹に掘った墓穴まで運び
埋葬し、板切れに死亡者の名前を墨で書いて墓碑として打ち?みました。
やがて山全?に針の山のように墓碑が隙間もなく打ち?まれてゆきます???
その悲?な?子に、胸がつぶれる思いがしました。
このようにして私達は?日のように大八車に山のように菰包みにした
遺?を積んで、大同江を渡り、平壤市?の中心街を通り山に運びました。
道路には大きな金日成?軍の肖像額が?げられて、なにかの式典が
開催されていたり、多くの朝鮮人から罵?を浴びせられたりで
敗??民の情けなさと、恐怖心を味わいました。
あとで知ったのですが、越冬した日本人の死亡率の最も高かったのは、
ソ聯占領軍司令部、北朝鮮政?があった平壤を中心とする西北朝鮮でした。
?力者のお膝元だけに、日本人に?する締め付けは?しく、平壤地?では
?州などからの避難民の死亡者は?に40%にも達していたそうです。
?後、北朝鮮だけは?交が正常化してないため、巡?者や遺骨?集?などの
訪問も許されずに今日に至っています。 祖?に引揚の夢を抱きつつ、
無念のも異?の土となられた方?のご冥福を祈るばかりです。
?時私達は、ソ聯や北朝鮮?局の命令で使役と?する??に?り出されたり、
日本人?の要請で遺?運搬、埋葬などの??につきましたが、これら??の
報酬として賃金をもらったり食糧の配給を受けたりした記憶はありません。
創立したばかりの北朝鮮の政府は、自己の政?維持に精一杯で、
日本人のことなど、かまってる暇は全くなかったようです。
また、ソ聯軍?局も、?州や樺太と同?、日本人の??や生活、
その生死にさえ全く無?心であったそうです。
だだ地?によっても異なっているようですが、北朝鮮の人民委員?から
終?の昭和20年に成人1日?たり米8勺程度、?穀6,6勺程度の配給が
あったとの記?を?んだことがあります。
北朝鮮の軍票 1945年?行
?え年16?で道路??の使役 ⇒
平壤日本人?長が?行した?明書
こうしている?に、私達平壤在住日本人の殆どが所持金も衣類その他の物資を
失って、飢餓感は日?しに?くなり、??への希望は益??くなっていきました。
特に?州などからの避難民の場合は、?る衣料などなにもないので、
その焦燥感はより?かったものと思います。
昭和21年、やっと?い春が北朝鮮を訪れたと、平壤在住日本人のすべてが、
このまま二回目の冬を迎えたら、間違いなく日本人の殆どが全滅して
しまうことを肌で感じていたのです。 依然として38度線はソ聯軍により
封鎖されており、このまま平壤に?るのも死、逃げても死なら、万に一つの
生への可能性のある逃げ方を選ぶのが自然です。
?時日本人の入浴は月に1回とされていたので、日本人は皆不潔となり、
その居住?はシラミやノミやダニ等の?くつとなり、?疹チフスやコレラが蔓延し
防疫上も好ましくない環境になっていました。 昭和21年6月頃から、ソ聯軍や
北朝鮮?局者の中にも、日本人をこのまま抑留させておくことに疑問を感じる者が
多?出てくるようになり、ボツボツ日本人の平壤?出は?認の形で行われる
ようになりました。 このようにして私達一家は、昭和21年8月5日、
他の日本人避難民と共に、肩に食い?む程積めこんだリックを背にして
平壤?に集合しました。 まる2日間、平壤?に?泊りしましたが、
その間もソ聯兵の 「マダム
ダワイ」の怒?に?まされました。
胸につけた名札 (私は平壤在住日本人 第18694?)
( 第21章に?きます )